三国志演義で最強と呼ばれる軍師のランキングを作成してみました。1位はほぼ確定なのですが、それ以外の順位はかなり迷いました。
正史で活躍した人物でも演義では端役だったりすることがよくあります。今回は正史での活躍は目をつむり、あくまでも演義で活躍した人物のランキングを作成してみました。
- 選択するにあたって三つのルールを設定
- 1位 諸葛亮
- 2位 賈ク
- 3位 司馬懿
- 4位 ホウ統
- 5位 陸遜
- 6位 徐庶
- 7位 周瑜
- 8位 荀イク
- 9位 呂蒙
- 10位 程イク
- 番外 陳宮
- まとめ ー 三国志演義では孔明がダントツの1位
選択するにあたって三つのルールを設定
正史版の軍師ランキングと同様に文官ではなく、軍隊の指揮や策謀、献策に優れた人物を選択しました。
ランキングを作成するにあたり、以下の選択基準を設定してあります。
- 軍隊の司令官として優れていること
- もしくは策謀、献言が優れていこと
- 正史は無視
なお、画像の出典は全て真・三國無双8からになります。
1位 諸葛亮
三国志演義で文句なしと最強軍師というとこの方ですね。劉備との水魚の交わりで有名な諸葛孔明です。
正史では政治家としての実績が多いのですが、三国志演義では神がかり的な智謀を持つ軍師として大活躍します。
魏の将軍である夏侯惇が率いる10万の大軍を火計を用いて破ったり、南蛮王孟獲を七度捕えて七度放つなど、まさに鬼謀の軍師として活躍します。
三国志で最大の戦いであるといってもいい赤壁の戦いでも重要な役割を果たします。
- 呉の張昭ら重臣を論破する
- 麦わらで作った人形で、矢を受けて矢を調達する
- 火計に必要な東南の風を起こす
- 逃亡する曹操の退却先に関羽らを配置
祭壇で祈ることによって、東南の風まで起こしてしまうので、まさに神がかり的といっていいでしょう。もちろん妖術などではなく、季節風が吹くことをあらかじめ把握していた、という形で描かれています。
魏との北伐では「空城の計」で敵軍をやり過ごしたり、自身の死後に人形を用いて司馬懿を破り「死せる孔明生ける仲達を走らす」ということまでやってのけます。間違いなく三国志演義での最強軍師でしょう。
2位 賈ク
司馬懿と賈詡のどちらを2位にするか迷いましたが、賈詡を2位にしました。
賈詡は正史と演義で活躍がほとんど変わらない珍しい人物です。三国志演義では諸葛亮が神がかり的な軍師として描かれているため、諸葛亮に対比して評判を落とす軍師が多いのですが、賈詡の活躍は史実とまったく変わりません。
賈詡は諸葛亮との絡みが少ないので、その分、正史とそれほど活躍が変わらなかったのでしょう。演義では打つ手にまったく失策がなく、各勢力を渡り歩く天才的な軍師として描かれています。
3位 司馬懿
三国志演義でも諸葛亮の好敵手として描かれ、魏の軍師として活躍するのが司馬懿です。正史では直接戦ったのは2度ほどですが、演義では実に6度も諸葛亮と対戦しています。
正史とは異なり、演義では孔明と戦う度に負けています。ただ魯粛みたいに子どものようにあしらわれているのではなく、諸葛亮の好敵手として描かれています。
演義では若干臆病な描写が気になるくらいでしょうか。五丈原の戦いの後に孔明の陣地を視察し「(孔明は)天下の奇才だ」といったのは史実と同様のエピソードですね。
4位 ホウ統
諸葛亮が臥竜と呼ばれたのに対して、鳳雛にたとえられたのが龐統です。劉備が益州を手に入れる立役者といってもいいでしょう。
三国志演義を初めて読んだときに、臥竜と鳳雛の両方を手に入れた劉備は確実に天下を統一するだろう、と思ったのは私だけでしょうか(^^;
三国志で最も有名な戦いといってもいい赤壁の戦いで、連環の計という策で曹操の船を繋ぎ、呉と蜀の連合軍を大勝へと導きます。このときに親友だった徐庶が火計に巻き込まれないように配慮するなど、軍師として細かな冴えも見せています。
劉備が親族である劉璋が治める益州入りをためらうと、国を奪っても後に民に報いてやれば真偽に背くことはないと劉備を諌めます。
龐統は自身が劉備に薦めた益州攻略中に、落鳳坡という場所で戦死します。36歳の若さでした。
5位 陸遜
社稷の臣、という言葉がありますが、諸葛亮とともにその言葉がふさわしい人物が呉の陸遜です。関羽の仇討ちに燃える蜀漢の劉備を夷陵の戦いで大いに破りました。
三国志演義では夷陵の戦いの後に追撃する陸遜を、諸葛亮が石兵八陣を用いて撤退に追い込みますが、これは陸遜の評価を落とすものではないでしょう。
234年の合肥の戦いでも殿を引き受け、兵士に持久戦の用意をさせて、相手に即座の撤退はないと思わせておいて突然退却する、という作戦を見事に成功させています。まさに軍師ですね。
陸遜はその後も呉の中心人物として国を支え続けました。清廉な人柄であり、亡くなったときに自宅に財産は全くなかったといわれています。
6位 徐庶
三国志演義では最初は単福という偽名を用いて登場します。諸葛亮の親友であり、彼を劉備に推薦した人物が徐庶です。
初めて三国志演義を読んだときに、徐庶がそのまま劉備の軍師になってくれれば、と思った人は多いと思います。新野時代の脆弱な頃の劉備軍で、呂曠、呂翔、李典、曹仁と魏の武将を次々と破ります。
程昱の計略によって母親が魏に赴いたと知り、結局は徐庶は劉備の元を去ってしまいます。その後も赤壁の戦いで龐統の策を見抜きながらも見逃すなど、劉備軍の一員であり続けました。
7位 周瑜
史実では最強軍師の一角なのですが、三国志演義では諸葛亮の引き立て役になってしまっているのが呉の周瑜です。
「美周郎」と呼ばれるほど容姿に優れ、史実同様に呉の中心人物として軍師として活躍します。ただ諸葛亮と対比されているためか、どうしても引き立て役になってしまっている印象があります。
その最期も「(天は)既に周瑜を生みながら、何故、諸葛亮をも生んだのだ」と嘆いて憤死してしまいます。
8位 荀イク
荀彧も正史と演義でそれほど評価は変わりません。ただ演義では一族の荀攸の功績もちょっと手に入れてしまっているという感じでしょうか。
荀彧の最大の功績は曹操軍の対袁紹戦を指導し、勝利に導いたことです。赤壁の戦いとならぶ三国志の有名な戦いである官渡の戦いです。
曹操が立て籠もる官渡に袁紹軍が大軍で押し寄せます。10万の曹操軍に対して、袁紹軍は70万を超える大軍でした。流石に弱気になる曹操に対して「先に退いた方が負けるでしょう。ここは奇策を用いて敵を混乱させるべきです」と献策し、奇襲部隊を用いて袁紹軍の兵糧を焼き払います。
荀彧の適切な献言もあって、最大のライバルであった袁紹を破った曹操ですが、その後は皇帝の即位を巡って荀彧と不仲になったといわれています。この辺りは正史も演義も同じですね。
9位 呂蒙
呉の軍師で周瑜や魯粛は諸葛亮との対比からか、道化役のように描かれているシーンがあるのですが、史実同様の活躍をしているのが呂蒙です。
その最大の功績はもちろん蜀の関羽を破ったことです。最近の研究だと関羽は劉備の配下というよりは、同盟勢力的な存在ではなかったかといわれています。それくらい関羽は荊州において大きな力を保持していました。その関羽を倒し、呉に荊州を回復したのが呂蒙です。
その行動は「呉下の阿蒙にあらず」という言葉や「士、別れて三日、刮目して相待つべし」 という諺にさえなりました。
演義ではその最期は関羽の亡霊に呪い殺された?ことになっています。
10位 程イク
曹操の初期の頃の軍師が程昱です。三国志演義で程昱は史実以上に活躍します。河北の雄である袁紹との対決では十面埋伏の計を用いて袁紹軍を破ります。
劉備の最初の軍師といって徐庶を、母親の筆跡を真似た手紙で欺き、魏に引き抜いたのも程昱の策でした。
赤壁の戦いで曹操が敗北したときは、関羽と交渉するように献策し、最終的に逃亡へと導いています。
程昱の演義での最期はちょっと分からなかったのですが、史実では80歳だったといわれています。逆算すると曹操に仕えたときは既に50歳を超えていたことになりますね。
番外 陳宮
呂布の軍師である陳宮を番外として選んでみました。
演義での陳宮は、逃亡する曹操を手助けする役割を担当します。ただ曹操の呂伯奢殺しの一件から、曹操の元を去っていきます。
呂布のために陳宮は様々な献策をしますが、ことごとく退けられます。それでも呂布の元を離れなかったのは、呂布にどこか憎めない面があったのかもしれません。演義を読んでいて「呂布はなぜ陳宮の策を用いないのだ!」と思った方は多いと思います。
最期は曹操軍に捉えられ刑死するのですが、曹操は陳宮の死後も彼の親族を手厚く保護しました。
まとめ ー 三国志演義では孔明がダントツの1位
三国志演義の軍師ランキングを作成していると、諸葛亮が頭抜けている印象があります。まあ、演義は歴史小説なのでこれで良いかと思います。
私が初めて三國志を読んだのも、正史ではなく演義でした。孔明の出師表で涙し、街亭の戦いでは歯がゆい思いをしたのを覚えています。
正史に詳しい人の中には、演義を快く思わない人も居ますが、演義は演義でまた良いのではないでしょうか^^
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