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正史版 三国志の優秀軍師の私選ランキングトップ10

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正史版三国志の軍師のランキングを作成してみました。最強武将版のランキングと同様に私の趣味と偏見でランキングにしていますので、自分の好みの軍師の順位が低くても、笑って読み流していただければと思います。

 

ランキングを作成するために、手持ちの三国志関連の本を読み直してみたのですが、この時代は何人も優れた軍師が登場していますね。全員をランキングに入れたいくらいなのですが、それだとおもしろさに欠けるので、悩みつつもランキングを作成してみました。

 

選択するにあたって三つのルールを設定

何をもって軍師とするかは非常に難しいですね。単純に武官、文官で分けると魏の鍾繇や呉の張昭などもランキングすると思います。彼らは優秀な文官でしたが、どちらというと政治家タイプなので、軍師というとちょっと違うような気がします。

 

そのため軍師のランキングを作成するにあたり、以下の選択基準を設定してみました。

  • 軍隊の司令官として優れていること
  • もしくは策謀、献言が優れていこと
  • 三国志演義は無視

なお、画像の出典は全て真・三國無双8からになります。

 

1位 司馬懿

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私の中の司馬懿像は「しぶいおっさん」なのですが、コーエーさんのグラフィックは「イキった若造」みたいな感じで、ちょっとイメージが違うかな(^^;

 

ランキングでは司馬懿を一位に選びました。いわずと知れた諸葛亮の好敵手で、後に晋を建国する礎を作った人物です。

 

三国志演義では諸葛亮と何度も戦っていますが、正史では実際に戦ったのは二回です。蜀の弱点は食料の補給にあると見抜いていた司馬懿は、二回とも持久戦に持ち込み、諸葛亮の北伐を退けています。

 

時系列が前後しますが、諸葛亮の第一次北伐のときも、蜀に寝返った孟達を急襲して敗死させ、諸葛亮が狙った二正面作戦を事前に防いでいます。

 

その後の公孫淵の討伐でも活躍し、政敵であった曹爽も機略を用いて排除します。実力も実績のランキングのトップにふさわしい軍師といえるでしょう。

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2位 諸葛亮

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諸葛亮の順位は最後まで悩みましたが、司馬懿に次ぐ二位としました。

 

蜀漢を建国した劉備に三顧の礼で迎えられ、天下三分の計や出師表で知られるのが諸葛亮です。日本人の好きな中国史上の人物でも、おそらくトップに上がる人物ではないでしょうか。

 

正史では政治家としての活躍の方が多いのですが、雍闓や孟獲と戦った南征と、魏と戦った北伐で軍師としても活躍しています。見方を変えれば、諸葛亮が軍師として活動し始めたのは南征以後ということになります。それ以前の軍師的な役回りは、ほとんどが演義の創作です。

 

軍師としては正攻法にこだわり過ぎた感があります。魏延が主張した一気に長安を攻略するという案を採用していたら、ひょっとしたら歴史は変わっていたかもしれません。ただ魏延が何度献策しても、ついに諸葛亮はその案を採用することはありませんでした。

 

諸葛亮の死後、引き上げた蜀軍の陣地を視察した司馬懿は「諸葛亮は天下の奇才なり」と感嘆したといわれています。

 

3位 荀攸

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正史と演義で評価が変わる人物の一人が荀攸です。

 

荀攸は荀彧の従兄弟なのですが、荀彧よりも6歳年長で、実質的には魏の軍師の筆頭に位置していました。正史の荀攸の活躍は、演義では荀彧と郭嘉に奪われてしまったといっていいでしょう。

 

荀攸は曹操の軍師として、

  • 対劉表
  • 対呂布
  • 対袁紹

などの数々の戦いで曹操に献策し、曹操軍を勝利に導いています。ただその献策内容は後世にあまり伝わっていません。

 

荀攸は曹操の性格を知り尽くしており、曹操が自分の才能を自慢する人物を嫌うことを把握していました。楊脩のように曹操に殺された人物もいるので、用心していたのかもしれません。

 

荀攸の親友であった鍾繇のみは、荀攸の全ての献策を知っていたといわれています。鍾繇は荀攸の功績を後世に伝えるために書籍を書いていたようなのですが、完成する前に死去してしまいました。それが完成していたら、荀攸の評価は司馬懿や諸葛亮を上回るものになったかもしれません。

 

4位 周瑜

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周瑜も三国志演義では諸葛亮を引き立てるための道化役のように扱われています。もちろんそれらは演義の創作で、正史では赤壁の戦いで魏軍を破った中心人物です。

 

赤壁の戦いでは劉備軍と同盟し、呉の宿将である黄蓋とともに火計を用いて曹操軍を大いに破ります。

 

赤壁の戦いの戦いのあと、周瑜は孫権に大胆な作戦を提案します。それは劉璋が守る益州の攻略でした。このとき曹操はまだ赤壁の戦いで疲弊しており、劉備は荊州を借用したばかりで、益州の劉璋は暗愚の上に張魯と常に小競り合いをしていました。

 

周瑜は孫権の従兄弟である孫瑜とともに益州を攻略し、北方の馬超と同盟し、孫瑜は益州に残った上で自身は呉に戻り、益州と呉から魏を攻めて中国全土を統一するという壮大な案でした。成功したかどうかは別として、周瑜の気宇の大きさが分かる作戦ですね。

 

この案には孫権も賛同し、周瑜は益州攻略の準備に取り掛かりますが、その矢先に病没してしまいます。36歳の若さでした。

 

5位 賈ク

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何度も君主を変えながら、生き残った軍師が賈詡です。三国志演義と正史とで活躍が変わらない珍しい人物といってもいいでしょう。

 

張繡配下のときに、曹操軍をその智謀で撃退し、

  • 曹昂 曹操の息子
  • 曹安民 曹操の甥
  • 典韋 曹操の武将

という曹操軍の重要な武将を討ち取っています。

 

それでいながら後に曹操に重用されたのは、それだけ賈詡が優れていたからだといえるでしょう。

 

三国志の著者である陳寿は、前出の荀攸と賈詡を評して「漢の張良、陳平に比肩する」と高い評価をしています。ただ賈詡が李傕配下のときにした長安を攻撃する献策が、結果として李傕・郭汜軍の人民の殺戮に繋がっています。賈詡の暗いイメージはそれが影響しているのかもしれません。

 

6位 魯粛

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演義では呉と蜀の間に挟まれて、諸葛亮に子どもの使いのようにあしらわれていますが、正史では呉の軍師として周瑜のあとを継いで活躍します。

 

曹操軍が攻め寄せてきたときに、呉の武将たちは狼狽し、口々に帰順することを主張しました。ただ魯粛のみは動ぜす、徹底抗戦を主張しました。孫権が不在だった周瑜を呼び寄せ意見を聞いたところ、周瑜も魯粛に同調したため、孫権は曹操との対決に踏み切ります。

 

関羽が荊州を統治していたときも、その返還のために魯粛は刀を一本下げただけで、兵を退け、関羽と一対一で対峙しました。

 

正史の魯粛は演義とは違い、度量に優れた人物だったといえるでしょう。

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7位 荀イク

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曹操から「わが子房なり」と評価されたのが荀彧です。子房とは漢の高祖である劉邦の軍師である張良のことですね。

 

荀彧は若い頃から「王佐の才(王者を補佐する才能)」があるといわれていました。その王佐の才が存分に発揮されたのは、曹操と袁紹が激突した官渡の戦いです。

 

「袁紹軍は大軍だが規律がなく、田豊は強情で上に逆らい、許攸は貪欲で身持ちが悪く、審配は独りよがりで計略に欠け、逢紀は自分の判断だけで動く。顔料・文醜は一騎駆けの勇気だけの武将に過ぎないので、すぐに捕虜にできる」

 

的確に袁紹軍の実態を見抜いていた荀彧は、曹操に策を進言して袁紹軍の兵糧を焼き払い、曹操軍を大勝に導きます。

 

8位 陸遜

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夷陵の戦いで劉備を破ったのが呉の陸遜です。その活躍は演義でも正史でも同じなのですが、演義ではやや夷陵の戦いのみがクローズアップされ過ぎている感があります。

 

夷陵の戦いの引き金になった、関羽と呉の戦いに大きな役割を果たしたのも陸遜でした。

 

呉の武将である呂蒙は、陸遜が才能ある人物であることを見抜いていました。なおかつ陸遜が名前が知られていないことを利用し、孫権に陸遜を自分の後任に据えるように献策します。

 

陸遜は関羽に丁寧な手紙を書き、関羽を持ち上げる一方で、呂蒙とともに関羽討伐を進めます。関羽を破ったのは呂蒙のように思われていますが、陸遜も大きな役割を果たしていました。

 

9位 法正

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蜀の軍師というとどうしても諸葛亮がクローズアップされますが、実質的な軍師は龐統とこの法正でした。

 

劉備の入蜀や漢中攻略戦で活躍した優れた軍師だったのですが、利己的で些細なことでも恨みを持ったといわれています。それでも諸葛亮は法正を排除することはありませんでした。

 

「法正の助けによって益州を得ることができた。それを思えばどうして法正の行為を禁じることができようか」と諸葛亮は法正をかばったといわれています。人物的には問題があったとしても、それだけ軍師としては優れていたのでしょう。

 

法正は残念ながら45歳の若さで病死してしまいます。その後に劉備が夷陵の戦いで大敗したときも、諸葛亮は「法正がいればこんなことにはならなかったろうに」と嘆いています。

 

10位 郭嘉

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10位という順位ですが、この人を三国時代の軍師としてもっとも優秀だと言及している人も多いですね。魏の軍師で郭嘉です。官渡の戦いや烏桓征伐で活躍しましたが、38歳で病死しました。

 

赤壁の戦いで曹操が敗走中に「奉孝(郭嘉)がいれば、私をこんな目にあわせなかっただろうに」と嘆いています。

 

郭嘉が病死したときも「諸君は私と同年齢だ。ただ奉孝のみが若かった。天下が一段落したら後事を彼に託そうとしていたのに、若死にしてしまった。これも天命か」と嘆いたといわれています。それほどまでに曹操は郭嘉を信頼していたといえるでしょう。

 

番外 田豊と沮授

田豊と沮授は袁紹に仕えた軍師です。二人とも演義でも正史でも活躍は大きくは変わりません。

 

田豊は官渡の戦いには加わっておらず、そのことを聞いた曹操は喜び「袁紹は必ず負けるだろう」といったといわれています。官渡の戦いに勝利したあとも、「もし袁紹が田豊の策を用いていたならば、どうなっていたかわからない」と発言しています。

 

沮授は袁紹軍の全権を握る軍師だったのですが、官渡の戦いの前に身内の武将の讒言から、権限を縮小されてしまいます。官渡の戦いでも袁紹に様々な献策をしますが、ことごとく退けられ、最終的には捕虜になってしまいます。

 

沮授と昔なじみだった曹操は、沮授に自分に仕えるように薦めますが、沮授はこれを断り続けました。曹操は「沮授を得ることができていれば、考えるまでもなく天下の平定が出来たのに」と嘆息したそうです。

 

歴史家の孫盛は「田豊、沮授の知略は張良、陳平に匹敵する。ただ暗君に仕えたために滅亡を招いてしまった」と嘆いています。

 

まとめ ー 一番迷ったのは諸葛亮の順位

ランキングで一番迷ったのは諸葛亮の順位です。一位にしてもおかしくないし、もっと下位の順位でも不自然ではありません。正史では軍師としての活躍よりも、政治家としての役割が大きく、軍を実際に指揮して戦うのは南征以後になります。

 

ただ、南征でも結果を出し、北伐も成功はしなかったものの、司馬懿を相手に国力が劣る蜀軍を率いて対等に渡り合ったのですから、軍師としての力量も十分にあったと考えて良いでしょう。

 

ランキングに入れられなかったのは龐統呂蒙、程昱かな。陸遜の息子の陸抗や呂布の軍師だった陳宮も入れたかったのですが、もちろん全員は入れることができないので、この順位で落ち着きました。

 

さて、次は三国志演義版かな^^