史上最強、という言葉には惹かれるものがあります。
中国史だと日本人で馴染みが深いのは三国志や楚漢戦争ですが、実際にはそれ以外にも武勇に優れた武将が山のように存在します。
今回は私の独断と偏見で、中国史で強い武将のランキングを作成してみました。あくまでも私選なので、歴史小説好きが勝手に作ったランキングとして、話のネタくらいに捉えていただければと思います。
自分勝手な選択基準
選択するにあたっては二つのルールを設定しました。
個人の武勇が優れた人物であること
軍隊の指揮能力だけでなく、個人の武勇に秀でていることを条件の一つにしました。これにより諸葛亮や韓信などは外れることになります。諸葛亮は日本人にとっては思い入れの深い有名人物ですが「最強武将」というイメージとは異なるような気がします。
韓信も最強の司令官の一人ですが、個人的な武勇になると不明なのでランキングには入れませんでした。
明より以前の武将であること
これは単純に私の知識不足です(^^;
中国史を扱った歴史小説も読むのですが、日本の戦国時代ほど詳しくないので。
特に清や近代になるとほとんど分かりません。それもあって、あくまでも私選のランキングということでご容赦いただければと思います。
それに最強武将というのは、中世以前のほうが神秘的でいいよね、という勝手な思い込みがあるので、それをランキングに反映してみました。
- 自分勝手な選択基準
- 1位 項羽
- 2位 楊大眼
- 3位 韓世忠
- 4位 尉遅敬徳
- 5位 檀道済
- 6位 関羽
- 7位 李克用
- 8位 蕭摩訶
- 9位 衛青
- 10位 張世傑
- まとめ ー ランキングに入れなかった武将が他にもたくさん
1位 項羽
ランキングの順位は結構迷ったのですが、1位だけは迷いませんでした。秦末の武将で楚の項羽です。
項羽は楚の名将項燕の孫にあたります。挙兵前に始皇帝が楚に巡幸してきたときには「俺があいつに変わって天下を取ってやる」と叫んで、叔父の項梁を慌てさせたといわれています。項羽の気宇の大きさがわかるエピソードですね。
挙兵後は項梁に従って各地を転戦し、項梁の死後は自ら西楚の覇王と名乗ります。秦を最終的に滅ぼしたのも項羽です。
項羽は劉封との争いでは、個々の戦いではことごとく勝利しています。唯一負けたのが、最後の戦いである垓下の戦いです。垓下の戦いで項羽は残った28騎を率いて、劉封の大部隊に突っ込み数百人を討ち取っています。このときの項羽軍の被害は2騎のみでした。勇将の下に弱卒なし、という言葉がありますが、項羽が率いていた軍は常に勝ち続けていたといっていいでしょう。
最後のときになっても、劉邦軍は誰も項羽を討ち取ることができませんでした。項羽は追手の中に知人だった呂馬童を見つけると、俺の首を手柄にせよ、といって、自ら剣で首を刎ねてその生涯を閉じました。31歳の若さでした。
2位 楊大眼
個人の戦闘力ではこの人が最強かもしれません。北魏の孝文帝に仕えた楊大眼です。この人は超人的な身体能力の持ち主だったようです。
- 関羽、張飛がよみがえっても勝てない
- 六軍に冠たり
- 素手で虎を退治した
- 鎧を着たまま宙返りができた
- 頭に9メートルの長さの紐を結びつけて走っても地面に紐が着かなかった
北魏の将軍として戦場においても常に率先して突撃したといわれています。そのため南朝の親は、子どもを黙らせるのに「楊大眼が来るぞ!」といったという逸話が残っています。まあ、この手の話は他の武将にもありますが。
妻の潘氏も武装して、夫である楊大眼とともに戦ったという逸話が残っています。
3位 韓世忠
韓世忠はいわゆる抗金の名将の一人です。その武勇は一人で一万人に匹敵するといわれ「万人敵」と呼ばれました。
18歳で寡兵に応じて軍に入り頭角を現すと、金に破れて北宋から逃れた趙構(のちの高宗)に従い、金と戦いました。1129年には侵攻してきた兀朮(ウジュ。中国名は宗弼)の10万の大軍をわずか8,000の手勢で打ち破っています。
その後も揚子江以南の賊を討伐に活躍し、宰相に匹敵する地位である宣撫使の地位を得ます。ただ活躍を妬んだ和平論を唱える秦檜の策略にかかり、兵権を奪われました。
その後は門を閉じてあまり人とも合わず、釣りを共に余生を過ごしたといわれています。
4位 尉遅敬徳
そのあまりの強さから「神勇」といわれたのが唐の時代の尉遅敬徳です。後に同僚となる秦叔宝との一騎打ちは丸一日中続き、馬を変えても、休憩を入れても決着が着かなかったといわれています。
唐の太宗である李世民に仕えてからは、数々の戦いで活躍し、玄武門の変では李元吉を討って李世民の即位に貢献します。
突厥との戦いや高句麗遠征など、数多くの戦いに参加しましたが、戦場ではその卓越した武術から、かすり傷ひとつ負うことがなかったといわれています。正に「神勇」ですね。
5位 檀道済
南朝宋の武帝である劉裕に仕え、その勇猛さから「張飛の再来」といわれました。
兵の指揮は張飛より遥かに上手く、無理攻めをせずに一度退却して敵を引き込んでから逆襲するなど、柔軟な戦術を用いたりしています。その見事な用兵から「三十六計逃げるに如かず」という言葉が生まれたといわれています。
南朝宋の武帝である劉裕が死ぬと文帝に仕えますが、文帝とは反りが合わなかったようです。反逆を疑われて最終的には誅殺されてしまいます。
そのときに檀道済は「我を殺すのは、自らの手で万里の長城を壊すようなものだ!」と叫んだといわれています。
その後、檀道済が叫んだ言葉は事実になります。檀道済の死後、北方から攻められて首都を包囲された文帝が、檀将軍が居ればこんなことにはならなかった、と嘆いたというエピソードが残っています。
部下から「捕虜を全て殺害すべきだ」との意見があったときも、これをしりぞけて逆に捕虜を解放することで敵を味方につけるなど、檀道済が優れた武将だったことが伺えます。
6位 関羽
三国志から誰か一人入れたいなー、と個人的に悩んで悩んで、やはり一人だけ選ぶなら関羽でしょう。後漢の武将で劉備、張飛と義兄弟の契りを結び、蜀漢の建国に活躍しました。
一度、魏の曹操に捉えられ帰順を進められますが応じず、その恩は白馬の戦いで袁紹軍の将軍である顔良と文醜を斬ることで返します。その後は再び劉備の元にもどり、赤壁の戦いでは水軍を率いて活躍します。
劉備が益州を攻略し成都に根拠地をおくと、襄陽太守として荊州を守りました。
義に厚かったことから、後に神格化され軍神として関帝廟に祀られています。この記事でも「関羽、張飛の再来」という言葉が何度か出て来るように、神格化されるほどの武将だったといっていいでしょう。
7位 李克用
李克用は唐末の群雄の一人で新疆の出身だといわれています。若くして堯雄をうたわれ、騎射にたくみであり、片目であったことから独眼龍の異名がありました。
唐末の黄巣の乱のときに活躍し、自軍に黒衣を着用させたので、李克用が率いる軍勢は鵜軍と呼ばれました。度々、黄巣が率いる軍をやぶり、鵜軍来る、の噂だけで黄巣軍は逃げ出したともいわれています。
884年にはついに河南にて黄巣を討ち取っています。抜群の強さを誇った李克用ですが、政治的な才能は同時代の朱全忠に劣っていたようです。後梁を建国した朱全忠を打倒すべく活動していましたが、その半ばで病死しました。
8位 蕭摩訶
南北朝時代に南朝で最強といわれたのが蕭摩訶です。「関羽の再来」という異名があるくらい武勇に優れていました。
あるときに、お前は関羽の再来といわれているが、本当に強いのか?、といわれると、蕭摩訶は無言で敵陣に単騎で突っ込み、敵将の首を持ち帰ったといわれています。
梁の武帝の末期に起こった侯景の乱で活躍し、対北斉戦では呉名徹に従って北斉の大軍を破っています。国内の反乱の鎮圧にも活躍し、娘は皇后にまでなったのですが、元々陳という国の国力が弱く、新興の隋に陳は滅ぼされてしまいます。
隋でもその名声と実力から、隋の皇帝の一族である楊諒の家老になります。ただその楊諒が反乱を起こしたため、最後は楊諒とともに処刑されました。
9位 衛青
漢の時代に匈奴に対して連戦連勝し、多大な功績を上げたのが衛青です。
非常に貧しい家に生まれ、少年時代に囚人から、
「貴人の相がある。将来は諸侯になるだろう」
と言われても、
「今は奴隷扱いされている。鞭打たれず、ののしられずにすめばそれでいい。どうして諸侯になれよう」
と笑って答えたといわれています。
姉の衛子夫が美人だったため、武帝に召し出されて寵姫になります。それが縁で衛青も抜擢されて将軍となります。
匈奴との戦いでは連戦連勝を続け、特に前280年の匈奴征伐では斬首した数は数千、獲得した家畜は数十万という戦果を上げています。
個人的な武勇にも優れ、北方の出身だったことから、特に馬術と騎射が優れていたといわれています。
衛青の実家は武帝の姉の平陽公主に仕えていましたが、衛青が大将軍になったあとは、かつての主人だった平陽公主の夫になりました。
姉が美人だったことから皇帝に引き立てられて武人になったり、かつての使用人として働いていたときの主人と結婚することになったり、この人の人生は小説よりも変わっていたのかもしれませんね。
10位 張世傑
南宋最後の武将といわれているのが張世傑です。実はこの人は個人的な武勇があったのかどうかは調べてみても分かりませんでした。
それでもランキングに入れたのは、張世傑という武将の執念があまりにも凄まじかったからです。
元々はモンゴルに投降した張柔の部下でしたが、南宋に逃れたあとは侵攻してきた元軍と戦いを繰り広げます。1275年には元軍の攻撃から杭州臨安府を守り抜きます。翌年にモンゴルのバヤンによって臨安府が陥落すると、皇族の益王を奉じて南へ逃れます。
迫りくる元軍と戦いながらも、反撃の機会を狙っていた張世傑は、涯山という地に砦を構築し元軍を迎え撃ちます。最初は涯山で元軍を何度も打ち破りますが、次第に物量に勝る元軍に圧倒されるようになります。ついに最後の皇帝である衛王が宰相陸秀夫に抱かれて入水しすると、それを見た家臣らはいっせいに入水したといわれています。南宋の壮絶な最後のシーンですね。
ところが張世傑はまだあきらめませんでした。手勢を率いて戦場を離脱し、海上に逃れて再起を図ります。
船で陳朝大越国(現在のベトナム付近)を目指しますが、途中で暴風雨に遭い、ついに張世傑が乗った船も沈んでしまいます。
その最後は、張世傑は部下を全て船から引き上げさせた上で、
「天が宋を滅ぼそうとするなら、この船ごと張世傑を転覆させよ」と叫んだといわれています。
彼が乗った船が沈んだときが、南宋が本当に滅びたときなのかもしれません。
まとめ ー ランキングに入れなかった武将が他にもたくさん
今回のランキングは迷いに迷いました。
意識的にランキングに入れなかったのは、三国時代の呂布と南宋の岳飛です。
呂布は正史でも強かったのは間違いないのですが、歴代の中国武将と比べるとどうしてもその強さを明確に測ることができません。ランキングに入れるよりはあえて外してみました。
岳飛も同じ理由からですね。韓世忠が入っているのに岳飛が入っていないのはおかしいのですが、そこは私選ランキングなのでご容赦いただければと思います。中国史上最高の英雄が岳飛なので、別格の存在ということで。
衛青が入っているので李広や霍去病も入れたかったのですが、それをいうと三国時代の張飛や曹仁(史実ではめっちゃ強い)も入れたくなりますし。楊業も入れたかったなー。
あ、このランキングはリライト時に、けっこう順位が変わるかもしれませんので、ご容赦を^^;
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