三国志で魏の国を建国した英雄曹操は「治世の能臣、乱世の姦雄」と評されました。人相見として有名だった許劭が、若い頃の曹操を評価していったのがこの言葉でした。
「落ち着いた世であれば能力ある家臣として、世が乱れれば悪知恵の働く英雄になるだろう」という意味の言葉なのですが、曹操自身はこれを聞いて大いに喜んだといわれています。
三国志演義でその曹操の「姦雄」ぶりを表すエピーソードとして有名なのが、呂伯奢一家の殺害事件です。
呂伯奢一家の殺害事件とは?
189年に董卓の専横を阻止しようと、王允を中心とした宮廷の重臣たちが董卓の暗殺を計画します。その暗殺役を引き受けたのが曹操でした。
名剣七星剣を献上する素振りをして、董卓の暗殺を狙った曹操でしたが、傍らに呂布が控えていたため、暗殺に失敗します。曹操は洛陽を脱出し、中牟県まで逃亡しますが、そこで県令の陳宮に捉えられてしまいます。
のちに呂布の軍師となる陳宮は、曹操の聡明さに感服し、県令の職を捨てて曹操とともに逃亡します。二人で成皋郡まで逃げてきたときに、曹操は父親と義兄弟の関係にあった呂伯奢の家が近くにあったことを思い出します。
曹操と陳宮は呂伯奢の家に立ち寄ると、呂伯奢は義兄弟の息子の来訪を喜び、二人を歓待します。ただ酒がなかったので、呂伯奢は酒を買うために外出します。
二人が休んでいると扉の向こうから、刀を研ぐ音と「縛ってから殺すのが良い」という声が聞こえました。逃亡生活を送っていた二人は、呂伯奢の家人が二人を殺す算段をしていると思い、逆に部屋に踏み込んで家人の8人を惨殺します。
ところが、踏み込んだ部屋の隅にあったのは縛られた豚で、家人は二人をもてなすために料理の準備をしていたのでした。家に居づらくなった二人はそのまま呂伯奢の家を飛び出しますが、そのときにロバに酒を積んで帰宅中の呂伯奢と遭遇してしまいます。
呂伯奢が「どこにいくのか?」と尋ねると、曹操は「急用があるので外出するが、すぐに戻る」と答えます。呂伯奢は疑いもせず「今ごろ、家人が豚を捌いて料理を作っているころでしょう。酒も買ってきたので早めにお戻りください」といって自宅へと向かいます。
いったんは呂伯奢と分かれた二人ですが、曹操は途中で引き返し、しばらくすると何食わぬ顔をして戻ってきます。陳宮が「何をしてきた?」と聞くと曹操は事も無げに「呂伯奢を殺してきた」と答えました。
「呂伯奢を生かしておけば、家人が殺されたのを見て追ってくるだろう。だから殺した」
正史には呂伯奢の殺害事件はない・・・が
曹操の性格を表す事件として有名なこの呂伯奢の殺害事件は、陳寿が書いた三国志の正史には記述が一切ありません。
そのため、三国志演義の作者である羅貫中の創作かと思っていたのですが、色々と調べていると、そうとも言い切れないことが分かってきました。というのも、呂伯奢の事件を記載した史書がいくつか存在するからです。
- 魏書 北魏の正史。編者は魏収
- 世語 西普の歴史家の郭頒の著作
- 異同雑語 異説集。著者は歴史家の孫盛
上記の史書に曹操による呂伯奢の殺害の記述があります。
魏書の呂伯奢殺害事件の記述
曹操が呂伯奢の家を尋ねると呂伯奢は留守だった。呂伯奢の息子達が食客達と一緒に曹操を脅し、馬と荷物を奪おうとしたため、曹操は剣をとって呂伯奢の息子達を討ち取った。
世語の呂伯奢殺害事件の記述
曹操が呂伯奢の家を尋ねると呂伯奢は留守だった。呂伯奢の5人の息子は礼儀正しく、曹操に対応したが、董卓に追われていた曹操は、呂伯奢の5人の息子達が自分を捉えるのではないかと疑いを持った。夜になって息子達が寝込んだところを刀で斬って8人を殺害して去った。
異同雑話の呂伯奢殺害事件の記述
呂伯奢の家を訪れた曹操は、夜中に食器の触れる音を聞いて、自分を始末するつもりだと勘違いした。曹操は夜のうちに彼らを殺害して、呂伯奢の家を立ち去った。
史実と演技との大きな違いは陳宮の同行
3つの史書に記述があることから、曹操による呂伯奢の殺害事件は史実だったようです。もちろん三国志演義による創作もあります。
- 陳宮の同行
- 豚を縛るなどの声
- 呂伯奢本人の殺害
陳宮は元々曹操に仕えていましたが、その後に反逆し呂布に仕えています。その理由は正史では分かっていません。
三国志演義の著者である羅貫中は、陳宮をこのエピーソードに登場させることによって、「乱世の奸雄」である曹操という人物を際立たせたかったのでしょうね。
まとめ ー 曹操の有名なセリフは創作かな
紹介していませんでしたが、三国志演義では呂伯奢を殺害したあとに、曹操がこんなセリフを口にします。
「わしが人を裏切ることがあっても、他人がわしを裏切ることは許さない」
このセリフは三国志演義のオリジナルではなく、異同雑話に記述があります。ただ著者の孫盛は創作が多かったといわれる人物なので、このセリフそのものは創作の可能性があります。
三国志演義を書いた羅貫中は、曹操を表現するには適していると思って、三国志演義に取り入れたのかもしれませんね。
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