明智光秀の三日天下という言葉はよく知られています。その三日天下は、実際には3日間ではなく12日間でした。
他にも、長篠の戦いの織田信長による鉄砲の三段撃ちなど、史実ではなかったのに史実のように信じられている話はいくつかあります。
今回は史実のように考えられているけど、実際はそうではない戦国時代の逸話を集めてみました。
以前に日本史の伝説をまとめた記事を書いたのですが、今回はそれとはちょっと異なっています。
史実としては有名な話なのですが、(歴史オタク以外には)あまり真実が知られていない話になります。
- 明智光秀の三日天下は実際には12日間
- 長篠の戦いの鉄砲の三段撃ちは実際にはなかった
- 毛利元就は子どもに三本の矢を教えることはできなかった
- 上杉謙信は武田信玄に塩を送っていない
- 徳川家康は三方ヶ原の戦いに嫌々出陣した
- 秀吉は墨俣に城を作っていない
- 風林火山という言葉は現代の創作
- 北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことがない
- 筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった
- 斎藤道三は油を売っていない
- まとめ ー 史実ではなくても読みものとして楽しめる
明智光秀の三日天下は実際には12日間
(出典 Wikipedia)
明智光秀が主君である織田信長を討ち取ったのが本能寺の変です。1582年6月2日の出来事でした。
その明智光秀が豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)に破れたのが山崎の戦い(天王山の戦い)です。日付は1582年6月13日のことでした。
本能寺の変の6月2日から、山崎の戦いの6月13日までを数えると12日間になります。三日天下といっても、実際には3日間ではありませんでした。ただ短期間で終わってしまったために、三日天下ということわざが生まれました。
もし光秀が摂津方面に早く兵をを展開し、細川藤孝や筒井順慶などの与力が味方をし、秀吉の到着が遅れていたら、三日天下という言葉もなかったかもしれません。ただ、そこまで行くと別の話になるので、この辺で。
長篠の戦いの鉄砲の三段撃ちは実際にはなかった
(出典 Wikipedia)
織田信長が戦国時代最強といわれた武田の騎馬軍団を破ったのが長篠の戦いです。このときに織田信長は三千丁を超える鉄砲を用意し、それを三段構えにして、絶え間なく射撃させることで勝利したといわれています。
ところが最近の研究では、この鉄砲の三段撃ちはなかったと考えられています。
一次資料として名高い「信長公記」には三段撃ちの記載は一切なく、5人の鉄砲奉行に指揮をさせたことのみが記載されています。三段撃ちの記載が表れるのは江戸時代になってからのことです。
織田軍の勝因は鉄砲の三段撃ちではなく、複数の要因がありました。
- 大量の鉄砲
- 野戦陣地の構築
- 戦力差(織田・徳川軍連合軍約3万に対して武田軍約1万5千)
一番の要因は戦力差でしょう。織田軍・徳川連合軍は武田軍の倍近い人数でした。
ただ織田軍が大量の鉄砲を戦場に持ち込んだのは史実なので、それが戦局に大きく影響したのは間違いないでしょうね。
毛利元就は子どもに三本の矢を教えることはできなかった
(出典 Wikipedia)
毛利元就の三本の矢の教えは有名です。
元就が病床で三人の息子を呼び、1本の矢は容易に折ることができるが、3本束ねると折ることはできない。だから3人力を合わせて毛利家を盛り立てていくように、というのが有名な三本の矢の教えです。
プロサッカーチームのサンフレッチェ広島の名前にもなっているこの三本の矢の教えですが、史実ではありませんでした。というのも、元就の長男である毛利隆元は、元就よりも8年も前に亡くなっているのです。
長男の隆元が8年も前に亡くなっているのに、元就が病床に子ども三人を読んで三本の矢の話を訓示する、というのは無理な話ですよね。
三本の矢の教えは、元就が子ども宛にしたためた手紙に、兄弟で協力するように書いたことからできた逸話だといわれています。
上杉謙信は武田信玄に塩を送っていない
(出典 Wikipedia)
敵に塩を送る、というのは、いかにも義将の上杉謙信らしい振る舞いですね。ところがこれも残念ながら、史実とは少し異なっています。
武田信玄が治めていた甲信地方は海に隣接しておらず、駿河か越後から塩を仕入れていました。仕入れていたと書きましたが、実際には商人から購入していたのです。
ところが今川家と手切れになり、駿河系の商人から塩が手に入らなくなってしまいました。上杉謙信は武田信玄と敵対していても、商人の行動を制限せず、塩の販売を止めたりすることはしませんでした。それが敵に塩を送る、という故事になりました。
史実では謙信は、敵に塩を送ったのではなく、商人が塩の販売をするのを黙認した、というのが正しいところでしょうか。
徳川家康は三方ヶ原の戦いに嫌々出陣した
(出典 Wikipedia)
三方ヶ原の戦いは武田信玄と徳川家康が刃を交えた戦いでした。このときに家康は、浜松城を無視して西進しようとした信玄を、阻止するために出陣したといわれています。
大河ドラマなどを観ていると、家康は「目前を通過する信玄を見過ごすなどは武士の恥」といって勇ましく出陣します。そして三方ヶ原では、戦意の低い織田の援軍に足を引っ張られて結局敗北する、という展開が多いようです。
でも史実では少し異なっています。徳川家康は勇ましく出陣したりはしませんでした。援軍に来ていた織田軍に同調して、籠城しようと考えていたフシもあります。
ほとんどの戦記ものは「権現様」である徳川家康のことを悪く書くことができず、勇ましく出陣するという話を創作したのではないでしょうか。
実際の三方ヶ原の戦いは、数百の徳川軍の小部隊が、武田軍の物見のために出陣し、それを収容しようと出陣した家康が、武田信玄の挑発により引きずり出された、というのが真実のようです。
秀吉は墨俣に城を作っていない
(出典 Wikipedia)
豊臣秀吉の出世譚として有名なのが、墨俣一夜城です。
織田信長は美濃攻略に際し、橋頭堡として墨俣に城を築くことを思いつきました。佐久間信盛、柴田勝家などの有力家臣にそれを命じましたが、建築中に敵に襲撃されてことごとく失敗に終わりました。
墨俣に城を築くことを命じられた秀吉(当時は木下藤吉郎)は、築城に工夫をこらしました。現場で建築するのではなく、必要な材木をすべて事前に用意し、木曽川を利用して材木を流し、現場では組み立てるだけにしたのです。
そのため一夜(実際は数日間)で城を築き上げたのが墨俣一夜城です。
ところがこの墨俣一夜城は明確な資料はありません。一次資料として名高い信長公記には、秀吉の墨俣城に関する記載がなく「洲股要害の修築を命じ」とあります。とすれば、墨俣にすでには城か砦が築かれていたことになります。
江戸時代に書かれた甫庵太閤記には、永禄9年に秀吉が美濃国内で城主になったと記載があり、そのことと墨俣が結びついてできた逸話のようです。
風林火山という言葉は現代の創作
(出典 Wikipedia)
戦国時代最強といわれる武田軍で有名なのが風林火山の旗印です。
風林火山は「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」という孫子の一節を引用したもので、武田軍の進退を表現したものといわれています。
ところがこの旗印ですが、当時は風林火山と呼ばれていませんでした。孫子の一節からとったことから「孫子の旗」と呼ばれていたようです。
江戸時代の文献にも風林火山という言葉はないことから、風林火山という呼称は井上靖氏の小説から生まれたのではないかといわれています。
北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことがない
(出典 Wikipedia)
戦国時代の下剋上の代表的な存在として有名なのが、後北条氏の初代である北条早雲です。戦国時代は北条早雲が開いたとも、戦国時代の魁ともいわれる人物ですね。
ところがこの北条早雲は一度も北条早雲と名乗ったことはありませんでした。というのも「北条」という姓を用いたのは、息子の二代目の氏綱からだったのです。
北条早雲の当時の名乗りは伊勢宗瑞(いせのそうずい)です。宗瑞は出家してからの法名で、名前(いみな)は長氏でした。通称が新九郎で、早雲というのは庵号になります。
- 名字 伊勢
- 通称 新九郎
- 名前 長氏(盛時とも。諸説あり)
- 法名 宗瑞
- 庵号 早雲
まとめると上記のようになります。
呼び方としては伊勢宗瑞や伊勢新九郎、早雲庵宗瑞などが正しいことになり、北条早雲という呼び方は、あくまでも後世の歴史家が名付けたものになります。
筒井順慶は洞ヶ峠には行かなかった
(出典 Wikipedia)
戦国時代を由来とすることわざで「洞ヶ峠の順慶」があります。単に「洞ヶ峠」とか「洞ヶ峠を決め込む」などともいわれます。
要は、日和見をする、様子見をする、という意味なのですが、このことわざの由来は、筒井順慶の行動にありました。
明智光秀の与力だった筒井順慶は、本能寺の変のあと明智光秀に味方すべく、大和筒井城を後にします。決戦の地である山崎の南方にある洞ヶ峠まで進出しますが、そこで光秀にも秀吉にも味方をせず、傍観を決め込んだ、というのが洞ヶ峠の由来です。
ところが史実では筒井順慶は洞ヶ峠にまで進出することはありませんでした。実際に洞ヶ峠に布陣したのは明智光秀です。光秀は筒井順慶の支援を期待し、洞ヶ峠に布陣してそこで順慶の到着を待ちました。そして順慶が来ないことを悟ると、洞ヶ峠を後にして山崎に布陣したのです。
斎藤道三は油を売っていない
(出典 Wikipedia)
油売り商人から一代で美濃の国主まで成り上がったといわれているのが斎藤道三です。蝮(マムシ)の道三、という異名でも有名ですね。
近年の調査の結果、斎藤道三の国盗りは一代ではなく、親子二代での国盗りだったことが分かってきました。
斎藤道三の親の名は松波庄五郎(一節には松波庄五郎や法蓮房)です。司馬遼太郎の国盗り物語を読んだことのある人ならピンとくると思います。以前はこの松波庄五郎は斎藤道三と同一人物だと思われていたのです。
松波庄五郎は斎藤道三の親に当たる人物で、油売りをしていたのはこの人物です。庄五郎は油売り商人を辞めて武士を志し、美濃の守護代である長井氏に士官して西村勘九郎と名乗ります。
親の代で油売り商人を辞めているのですから、息子の道三が油を売っている訳がないですね。
まとめ ー 史実ではなくても読みものとして楽しめる
歴史は変わる、とよく言われます。新しい資料の発見によって、今まで定説と思われていたものが覆されるのです。斎藤道三の親子二代の国盗りなどはその代表的な例ですね。
それでも私自身は司馬遼太郎氏の国盗り物語が大好きですし、秀吉の出世譚の一つである墨俣一夜城の話も気に入っています。
歴史は変わるものなので、ひょっとしたらあらたな資料が見つかって、実は墨俣一夜城が史実だったりするとおもしろいのでは、と考えてしまいます。
まあ、この辺りは歴史オタクの妄想的な楽しみということで(^-^)
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