源義経はチンギス・ハーンになった、という伝説があります。義経は奥州平泉で死なずに生き延びて大陸に渡り、モンゴル帝国の創設者であるチンギス・ハーンになったといわれている伝説です。
この伝説は今では残念ながら俗説の一つとして扱われています。ただ俗説であっても、ちょっとしたロマンを感じます。
日本史にはそんな伝説がたくさんあります。明智光秀が死なずに徳川家康の参謀なったという説や上杉謙信女性説などは根強い人気?があります。
今回は史実かどうかは別として、戦国時代を中心に伝説的な話を集めてみました。
- 源義経は死なずに大陸でチンギス・ハーンになった
- 源義経は二人存在した
- 武蔵坊弁慶は実在しなかった
- 徳川家康は桶狭間の戦いで死んでいた
- 織田信長は日本人ではなかった
- 明智光秀は死なずに天海僧正になった
- 上杉謙信 女性説
- 豊臣秀頼は死なずに鹿児島まで落ち延びた
- 天草四郎複数人説。天草四郎は十数人いた
- 坂本龍馬は明智光秀の子孫だった
- まとめ ー 史実かどうかはわかりませんがロマンだけでも
源義経は死なずに大陸でチンギス・ハーンになった
(出典 Wikipedia)
「判官贔屓」という言葉まで生んだ、日本史上で最も人気の高い人物の一人が源義経です。その義経には死なずにチンギス・ハーンになったという伝説があります。かなり有名な伝説の一つで、Wikipediaに専用の項目まであります。
- 義経の首が鎌倉まで届くまで43日もかかり腐敗して誰だか分からなかった
- 討たれたのは義経ではなく、影武者の杉目太郎行信だった
- 義経が討たれたのは1189年、チンギス・ハーンの即位は1206年
- チンギス・ハーンは外国人だったという言い伝えが存在
- チンギス・ハーンの旗印は源氏の笹竜胆に酷似
- チンギス・ハーンは白旗を用いたが源氏も白旗
- チンギス・ハーンは小弓ではなく、義経が好んだ長弓を使用した
- 二人とも酒が飲めず、背も大きくなかった
- 国号の「元」は「源」から
- チンギス・ハーンは別名を「クロー」といった
- チンギス・ハーンはモンゴル風の革製の兜ではなく、義経と同じ鉄製の兜を使用していた
史実ではないと思いつつも、これだけ相似点があると「ひょっとして」と考えてしまいますね。
源義経は二人存在した
(出典 Wikipedia)
これも知っている人は知っている伝説ですね。源義経は一人ではなく二人居た、という伝説です。
実際に山本義経という歴史上の人物が存在します。この山本義経は本姓が源氏なので、正式な名乗りは源義経になります。義経とまったく一緒ですね。
源義経の容姿は「平家物語」では、「ちびで出っ歯」と書かれているのですが、「義経記」には非常な美男子だったと書かれています。
この容姿の違いは源義経と山本義経が混同されたからなのかもしれません。
武蔵坊弁慶は実在しなかった
(出典 Wikipedia)
源義経の家臣で怪力無双の荒法師として有名なのが武蔵坊弁慶です。でもその武蔵坊弁慶の生涯のほとんどは残念ながら創作です。
歌舞伎の勧進帳で有名な弁慶の機転も、その最期の立ち往生も全て後から創られた話です。
では弁慶がまったく存在しなかったか、というとそうでもなく、信頼性の高い歴史資料である「吾妻鏡」に数行だけ、義経の家臣として書かれています。つまり史実では義経の家臣に武蔵坊弁慶という人物が居たようだ、くらいしか分かっていないのです。
徳川家康は桶狭間の戦いで死んでいた
(出典 Wikipedia)
戦国時代にはいくつも影武者の逸話を持つ人物が居ます。一番有名なのは甲斐の戦国大名である武田信玄でしょう。
武田信玄の場合は、弟の武田信廉(たけだ のぶかど)が信玄と容姿が似ていたため、信廉が影武者を務めたのは間違いないようです。信玄には他にも複数の影武者が居たといわれています。
徳川家康の場合は武田信玄とはちょっと違っていて、桶狭間の戦いのときに暗殺されて、それ以降は世良田二郎三郎元信という人物が徳川家康に成り代わった、という説です。
徳川家康が嫡男の松平信康を切腹させたのは、実子ではなかったからともいわれています。もし家康が桶狭間の戦いのときに死んでいたら、信康切腹のときには世良田二郎三郎元信には秀忠という実子がいたことになります。
謎といわれている徳川家の重臣である石川数正の出奔も、影武者説を採用すると理解できます。徳川家康が死んだとしても、影武者を立てることで乗り切り、いずれ家康の実子である信康が家督を継ぐのであれば、数正は徳川家にそのまま仕えていたのでしょう。
信康が世良田二郎三郎元信の指示で切腹し、秀忠が継ぐことが明確になったために数正は徳川家を去ってしまったのです。
織田信長は日本人ではなかった
(出典 Wikipedia)
織田信長は最初は藤原氏を、その後は平氏の子孫であると名乗りました。平氏と名乗った理由は、源平交代思想を利用するためだったといわれています。室町幕府を作ったのが源氏である足利氏だったので、交代するという視点から信長は平氏を名乗ったのです。
一般的に織田氏は越前国織田荘が発祥の地で、神官の家系だったといわれています。
その織田信長ですが、実は日本人ではなかったという説があります。織田信長の先祖といわれている織田常昌という人物は、別名を忌部常昌といい、忌部氏の出身でした。
この忌部氏は古代イスラエルから渡ってきた、イスラエル人の一支族だといわれています。
だとすると、織田信長も日本人ではなかった可能性があるということになりますが、さて。
明智光秀は死なずに天海僧正になった
(出典 Wikipedia)
明智光秀は山崎の戦いで破れたあと、本拠地の坂本城に戻る最中に小栗栖で落ち武者狩りにあい、生命を落としたといわれています。
ところが小栗栖で死なずに生き延びて、家康、秀忠、家光の三代に仕えた天海僧正になった、という説があります。
- 天海が亡くなったときの諡が「慈眼」。光秀の木造と位牌があるのが「慈眼寺」
- 家康の墓所である日光に「明智平」という地名がある
- 「明智平」を名付けたのは天海。従者にその理由を聞かれたときに「明智の名を残すためさ」と答えたという逸話がある
- 徳川家光の「光」は光秀の偏諱
- 春日局は明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
- 徳川家綱の乳母の三沢局は明智光秀の重臣の溝尾庄兵衛の縁者
明智光秀が生き延びて、徳川家康の参謀になったというのもロマンがあって良いですね。
上杉謙信 女性説
(出典 Wikipedia)
戦国時代の伝説として根強くいわれているのが上杉謙信女性説です。上杉謙信は生涯妻を娶ることはありませんでした。家督を継ぐことが重要な当時の風習から考えると、非常に珍しいといっていいでしょう。
松平忠明が記した「当代記」に「上杉謙信の死因は大虫だった」という記載があるのですが、この大虫は婦人病のことだといわれています。
また当時の越後では、謙信のことを女性だと歌った歌が存在しました。
「寅年寅月寅日に、生まれたまいし、まんとら(政虎?)様は、城山さまのおんために、赤槍立ててご出陣、男もおよばぬ体力無双」
上杉謙信は謙信は法号で、一時期は上杉政虎と名乗っていました。
織田信長は上杉謙信に「源氏物語屏風」を贈ったといわれていますが、これは当時は男性が女性にプレゼントするものでした。
豊臣秀頼は死なずに鹿児島まで落ち延びた
(出典 Wikipedia)
大阪夏の陣でなくなった豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼ですが、大坂城では死なずに鹿児島まで落ち延びたという伝説があります。
豊臣秀頼は母である淀殿や大野治長らと一緒に自害したといわれていますが、その最期を目撃した人物は存在しません。そして遺体も見つかることはありませんでした。
鹿児島県鹿児島市下福元町に、豊臣秀頼のものと伝えられる墓が実在します。豊臣氏の一族である九州豊後日出藩藩主の木下延俊が、秀頼の逃亡を手助けしたともいわれています。
木下延俊の四男は木下延由という人物ですが、この人物は豊臣秀頼の庶子である豊臣国松だったという説もあります。
天草四郎複数人説。天草四郎は十数人いた
江戸時代の最大の農民反乱である島原の乱の指導者である天草四郎時貞は、一人ではなく複数人居たという説があります。
島原の乱の舞台となった原城が焼け落ちたあと、幕府の要人が天草四郎の遺体を探すと、十数人見つかったといわれています。つまり天草四郎は一人ではなく、複数でグループとして反乱軍をまとめていたのです。
天草四郎時貞はカリスマ的存在で、実質的な乱の指導者は有家監物ら浪人衆でした。3万7千人ともいわれた一揆軍をまとめるために、複数の少年に天草四郎時貞を名乗らせたのかもしれません。
ちなみに天草四郎時貞には豊臣家の落胤説もあり「豊臣秀綱」というそれっぽい名前まであるのですが、そこまではさすがに行き過ぎでしょうか。
坂本龍馬は明智光秀の子孫だった
戦国時代からずっと下って幕末の坂本龍馬ですが、明智光秀の子孫だったという説があります。
- 坂本龍馬の坂本は明智光秀の坂本城から
- 坂本家の家紋は明智光秀と同じ桔梗紋
- 坂本龍馬が設立した亀山社中は明智光秀の拠点である亀山城から
- 龍馬自身が自分は明智光秀の子孫だとよく話していた
坂本龍馬は明智光秀の女婿である明智秀満の庶子、太郎五郎の末裔だといわれています。
まとめ ー 史実かどうかはわかりませんがロマンだけでも
ここに挙げた日本史上の伝説はあくまでも伝説であって、史実かどうかは分かりません。いくつかの相似点などがそれっぽく思えるだけというのが大半でしょう。
そして実際には残念ながら明確に否定されている伝説がほとんどだったりします。まあ、だから伝説なのですが。
それでもちょっとしたロマンとして、話のネタくらいには楽しんでもいいと思います。
源義経が生き延びてチンギス・ハーンになった、というのは荒唐無稽な話ですが、それでもロマンを感じるのですがいかがでしょうか^^
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