歴史は変わる、とよくいわれます。歴史が変わることは本来はありえないのですが、新たな資料や見解から、今まで常識だと思われていた事実が変わることはよくあるのです。
有名なところでは、鎌倉幕府の成立ですね。
私が学生のころは「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」と覚えたものですが、今は「いい箱(1185年)作ろう鎌倉幕府」に変わっています。
- 1192年 源頼朝が征夷大将軍に任命される
- 1185年 勅許によって全国への守護・地頭への支配権が確立
昔は征夷大将軍の任命を鎌倉幕府の成立と考えていたのですが、現在は実質的な支配権の確立の方を重要視している、ということになります。
さて、今回のテーマは肖像画です。人物自体が別の人に変わってしまった肖像画(あるいは写真)をご紹介します。
足利尊氏→高師直
(出典 Wikipedia)
足利尊氏といえばこの画像を思い浮かべる人も多いでしょう。実際に2000年頃までは、教科書でも足利尊氏像として紹介されていました。
近年は描かれている馬具や花押などから、足利尊氏ではなく尊氏の部下である高師直(もしくは高一族の誰か)である可能性が高いといわれています。
武田信玄→畠山義続
(出典 Wikipedia)
武田信玄といえば坊主頭に大きな口ひげ、そして恰幅の良い姿を想像する人も多いと思います。長谷川等伯によるこの肖像画の人物は、長い間、武田信玄を描いた肖像画だといわれていました。
確かに武田信玄のイメージにはぴったりなのですが、近年では武田信玄ではないという説が有力です。武田家の家紋である武田菱と家紋が異なることなどがその理由です。
長谷川等伯は能登の出身で畠山氏に使えていたことから、その主君である畠山義続ではないかといわれています。
源頼朝→足利直義
(出典 Wikipedia)
武家の棟梁としての凛々しさが漂う源頼朝像ですが、近年は足利直義説が有力になってきています。
この像は京都にある神護寺が所有する肖像画で、国宝に指定されています。源頼朝像として有名で「頼朝」というとこの像を思い浮かべる人も多いでしょう。
実はこの像には、描かれている人物が何者なのかを明示する署名などは一切ありません。
南北朝時代に書かれた書物に「神護寺には源頼朝の像があり、著者は藤原隆信」という意味の記述があることが源頼朝である根拠になっていました。ところが最近の研究では、この像が藤原隆信の死後に描かれていることが判明したため、書物の信頼性が揺らいでいます。
足利直義像が有力になっているものの、源頼朝であるという説も根強くあり、結論が早く知りたいですね。
伝聖徳太子像
(出典 Wikipedia)
ある程度の年齢の方なら、一万円札の聖徳太子像を覚えておられる方も多いと思います。
その一万円の聖徳太子像の元になったのが「唐本御影(とうほんみえい)」と呼ばれる聖徳太子を描いたとされる肖像画です。
中央にいるのが聖徳太子こと厩戸皇子で、向かって右側が息子の山城大兄王、向かって左側が弟の殖栗皇子だといわれています。
唐本御影は長らく聖徳太子像だといわれていましたが、東大教授が否定したこともあって、最近では聖徳太子とはまったく関係のない人物という説も有力になっています。
私などは一万円札の影響で聖徳太子というと、この顔しか思い浮かばないのですが、もし違う人物だったらけっこうショックですね・・・。
楢崎龍といわれている写真
(出典 Wikipedia)
坂本龍馬の妻で「おりょう」というと、この写真を思い浮かべる人も多いかと思います。
龍馬と同じ名前で、龍馬の危機を身をもって救ったり、九州に二人で日本初?の新婚旅行に行くなど、様々なエピソードが伝えられています。龍馬の死後の晩年は不遇だったようですが、写真はさすがの美しさですね。
ところがこの写真は残念ながらまったくの別人のようです。明治30年代におりょう自身が取材を受けたときに写真撮影もされているのですが、そのときに「初めて写真に写った」と話していたそうです。
写真は鑑定の結果、土井子爵家の女性の誰かだそうで、残念ながらおりょうとは無関係です。
まとめ ー 歴史は変わるもの。伝頼朝像が誰か気になる
歴史は変わるもの、とはよく言ったもので、足利尊氏像や武田信玄像はその一例なのでしょう。
伝源頼朝像は源頼朝である可能性もあるので、技術が進歩することによって、人物が特定されると良いのですが。
ただ、聖徳太子に関しては個人的に「この顔しか思い浮かばない」ので、できればこれが聖徳太子であって欲しいです。
という個人的願望を書いたところで、今日はこの辺で。
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