石谷家文書の石谷光政、頼辰親子と明智光秀、長宗我部元親との関係

歴史 - 戦国時代

本能寺の変の理由のひとつして挙げられるのが四国説です。大雑把にいうと、織田信長による四国征伐を阻むために、明智光秀が本能寺の変を起こした、というのが四国説の概要です。

 

この四国説は古くから本能寺の変の原因の一つとして考えられてきました。ただ、説としては弱いといわれていたのですが、近年はこの四国説が注目を浴びています。その理由は石谷家文書(いしがいけもんじょ)と呼ばれる石谷家に伝わる手紙が、平成26年に林原美術館と岡山県立博物館で発表されたからです。

 

石谷家文書とは林原美術館に保管されていた、石谷家親子や縁戚である斎藤家宛に送付された複数の手紙を指します。林原美術館を創設した、実業家の林原一郎氏によって収集されたものだといわれています。

 

石谷家文書は長く林原美術館に保管されていたのですが、近年の研究によって重要な手紙が多数含まれていることがわかってきました。

 

石谷光政、頼辰親子と明智光秀と長宗我部元親の関係

石谷家文書とは、各地の戦国大名やあるいは公家から石谷家や石谷家と関係の深い斎藤家に送られた手紙を保管したものです。

 

受け取ったの石谷頼辰もしくは石谷光政だといわれています。この二人が明智光秀、長宗我部元親とどういう関係だったのかを解説します。

 

石谷頼辰は石谷光政の養子

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石谷頼辰は石谷光政の実子ではなく養子にあたります。石谷光政の娘と結婚し、石谷氏を名乗りました。

 

石谷氏は奉公衆として、足利幕府の第十三代将軍足利義輝に仕えています。

 

石谷頼辰は斎藤利三の兄

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石谷頼辰は石谷光政の娘と結婚して石谷氏を名乗る前は、斎藤孫三郎と名乗っていました。明智光秀の侍大将である斎藤利三の兄にあたります。

 

石谷頼辰と斎藤利三は明智光秀の家臣

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石谷頼辰が足利義昭に仕えていたかは明確な資料が残されていないのですが、義昭が織田信長によって京から追い出された時期に明智光秀に仕えています。弟である斎藤利三の紹介があったのかもしれません。

 

そして長宗我部家と織田家との関係が悪化すると、明智光秀の使者として長宗我部家に使いをしています。

 

長宗我部元親の正室は石谷光政の娘

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長宗我部元親は石谷光政の娘を娶っていました。石谷頼辰とは義兄弟になりますね。そして石谷頼辰の実の弟が前述した斎藤利三です。

 

明智光秀と長宗我部元親に仕えた石谷頼辰

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明智光秀と石谷光政・頼辰親子、長宗我部元親の関係を略図にしてみました。四国討伐を計画していた織田信長を、阻止するために明智光秀が動いた可能性が信憑性を帯びてきますね。

 

石谷頼辰は、

  • 足利義輝
  • 明智光秀
  • 長宗我部元親

の三人に仕えています。

 

明智光秀には実弟の斎藤利三が仕えていましたし、長宗我部元親とは義理の兄に当たる関係でもあります。

 

長宗我部元親は石谷頼辰を嫡男である長宗我部信親付きの家老としています。そして石谷頼辰の娘を長宗我部信親の正室に迎えていました(石谷頼辰の娘はマンガのセンゴク権兵衛の11巻では計羅(けいら)という名前で登場します。名前は著者の創作かも)。

 

長宗我部元親は石谷頼辰をかなり深く信頼していたことが伺えます。

 

残念ながら石谷頼辰は長宗我部信親とともに戸次川の戦いで戦死してしまうのですが、もし生き残っていたら、本能寺の変の謎の一端が解けたかもしれません。

 

石谷家文書の中に本能寺の変に関連する手紙は・・・

石谷家文書の差出人は数多く、

  • 近衛前久
  • 長宗我部元親
  • 斎藤利三
  • 三好長慶
  • 小早川隆景

など十数人に及びます。

 

ここから本能寺の変に関する文章が発見・・・はされていません(^^;

 

石谷家文書として全47通の手紙が保管されているのですが、そのうち長宗我部元親本人からの手紙も4通含まれています。長宗我部元親が石谷頼辰と密接にやり取りしていることは判明しても、残念ながら本能寺の変に繋がるような直接的な手紙は含まれていなかったたのです。

 

気になるのは織田信長の四国討伐の日付

織田信長は四国討伐を計画していました。実際に四国討伐の総大将を三男である織田信孝とし、副将(実質的な討伐軍の指揮命令者)に次席家老の丹羽長秀を据えていました。

 

織田信長の四国討伐について、時系列に出来事を記載します。

  • 1582年5月7日 四国分国令の朱印状を発行
  • 1582年5月21日 長宗我部元親が斎藤利三宛に手紙(石谷家文書
  • 1582年5月29日 織田信孝が摂津住吉に着陣
  • 1582年6月2日 織田信孝軍、四国渡海予定日

長宗我部元親が斎藤利三宛に書いた手紙が石谷家文書として残されています。

 

その中身は、

  • 信長の命に従って阿波国の一宮城、夷山城、畠山城などから撤退していること
  • 土佐の入り口に近い海部城、大西城は保持したいこと
  • 信長が甲州征伐から戻ったら同心したいこと

などでした。

 

これだけを読むと長宗我部元親は織田信長に臣従するつもりであり、明智光秀が長宗我部元親を救うために信長を倒す理由がなくなります。

 

ただ日付を考えると、明智光秀はこの手紙の存在を知らなかったと考えられます。そして信孝を総大将とする四国討伐軍の渡海予定日は6月2日でした。

 

本能寺の変の当日ですね。

 

まとめ ー 今後、あらたな資料が発見されれば歴史が変わるかも

足利将軍家、明智光秀そして長宗我部元親の三家に仕えた石谷頼辰は、本能寺の変に大きく関係してそうな気がします。

 

もちろん明智光秀が長宗我部元親を救うためだけに本能寺の変を起こしたとは考えにくいのですが、光秀の家臣である斎藤利三、石谷頼辰兄弟と長宗我部元親との関係が、本能寺の変を起こす理由の一つだったことは可能性が高そうです。

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