武田信玄がもし長生きしていたら、と考えたことのある人は多いと思います。私もその一人です。こういう歴史のifは考えるだけでおもしろいのですが、最近、ちょっと変わったifを耳にしました。
もし武田信玄がもう少し早く死んでいたら、です。正直なところ、この発想はありませんでした。武田家と織田家は同盟を結んでいたので、もしその同盟が継続しているうちに武田信玄が亡くなっていたら、歴史は変わっていた可能性があります。
武田信玄は西上作戦の途中で病死というのが通説
武田信玄は天下を取るための西上作戦の途中に病によって倒れた、というのが通説です。
西上作戦の途中の三方ヶ原の戦いで、徳川・織田連合軍を破り、家康を敗走させました。その後も野田城を攻略するなど、三河への侵攻を続けましたが、病を発して西上作戦を諦めることになります。そして本拠地である甲州に引き上げる最中に、信州の駒場でその生涯を閉じました。
1573年当時、所領としては織田信長は武田信玄を上回っていました。ただ、信長は浅井氏、朝倉氏、毛利氏、本願寺に包囲されており、武田信玄との決戦にどれだけ戦力を集中できたかは疑問です。
三方ヶ原の戦いで、同盟軍である徳川家康への援軍も滝川一益、平手汎秀、佐久間信盛を部将とした、わずか3,000の援軍しか派遣できなかったことを考えると、信長の台所事情はかなり苦しかったと考えるべきでしょう。
もし信玄が病に倒れず、当時最強といわれた武田騎馬軍団を率いて、信長の本拠地である尾張、美濃を攻略し、そして京都に武田菱の旗を立てていたら・・・というのは、歴史小説を読んだことがある人であれば、誰もが考えるifだと思います。
武田氏と織田氏は同盟関係にあった
武田信玄が死んだのは1573年です。前述したように西上作戦の途中でした。ただ武田氏と織田氏はずっと敵対していた訳ではありません。むしろ一時期は良好な外交関係を保っていました。
武田信玄の跡継ぎである武田勝頼の正室は織田信長の養女であり、武田家の後継ぎである信勝を産んでいます。
また武田信玄の6女である松姫は、織田信長の嫡男である織田信忠と婚約していました。信玄が西上作戦を開始したため、この婚約は履行されなかったのですが。
ルイス・フロイスの著書である「日本史」に、織田信長がもっとも恐れたのは武田信玄である、という意味の文章が記載されています。信長は信玄の軍事力を恐れ、外交制作をもって、信玄の矛先が西に向かわないように働きかけていたと考えていいでしょう。
要は武田信玄が西上作戦を開始するまでは、武田氏と織田氏は良好な外交関係にあり、二重の婚姻によって、さらに結びつきを強くしようとしていた状況だったのです。
まとめ ー もし同盟が続いていたら信長が天下を統一していた?
織田と武田は同盟関係を継続していたら、信長の天下統一が早まったかもしれません。
信長の同盟者というと徳川家康が有名ですが、織田信長がその力量を高く評価し、妹を婚姻させた相手として浅井長政がいます。長政は結局は朝倉との同盟を優先し、信長に敵対するのですが、もし、この浅井長政のように武田勝頼が織田信長の同盟者になっていたら・・・
家格的には武田氏が織田氏よりも上になるので、武田氏が織田氏の外様大名の一つになるのは難しいかもしれません。ただ所領的には織田氏が武田氏を大きく上回っていたので、勝頼が織田氏との同盟継続という判断を下せば、信長の天下統一が早まった可能性は考えられます。
武田勝頼は武田信玄の声望があまりにも大きいこともあって、あまり評価は高くありません。それでも最近は評価の見直しが進み、優秀な大名だったのではないかといわれています。実際に武田信玄が統治していたころよりも、武田勝頼の時のほうが武田家の領土は広がっています。
もし信長の采配で、猛将である武田勝頼が先鋒として関東や東北の征服事業に従事していたら・・・織田信長の天下統一は早まっていたかもしれません。
歴史にifはないのですが、想像を巡らせるのは、歴史小説好きの冥利に尽きますね^^
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