戦国時代に最強といわれた武将が越後の上杉謙信です。以前に上杉謙信が登場する小説の書評でも紹介しましたが、戦って負けたことがほとんどなく、その強さは神がかり的ともいえます。
自らを毘沙門天の化身と信じ、生涯不犯を貫き通した「軍神」なので、神がかっているのも、本人が願った結果なのかもしれません。
戦国時代最強といってもいいほどの強さを誇った謙信ですが、天下を取ることはありませんでした。二度も上京していることもあり、天下への野心は持っていたと思うのですが、武田信玄のように西上作戦を起こすこともありませんでした。
抜群の強さを誇った上杉謙信
上杉謙信が戦った結果を成績にまとめると、
- 61勝2敗8分
になり、戦国武将としては最高の成績といっていいでしょう。上杉謙信のライバルといわれる武田信玄よりも成績は上回ります。
もちろん織田信長よりも成績ははるかに上で、織田軍を手取川の戦いで破っています。もっともこのときの相手は織田信長ではなく、織田軍の北陸方面の司令官である柴田勝家の軍勢でした。
手取川の戦いでの上杉謙信の軍勢は8,000人(一説には2万人)で、織田軍は3万(一説には4万)だったそうです。相手の半分に満たない戦力で織田軍を破ったことから、「上杉におうては織田も手取川、跳ねる謙信、逃げるとぶ長」という狂歌が歌われたといわれています。
領土を比較してみると信長よりも遥かに少ない
川中島の戦いで武田信玄と引き分け、手取川の戦いで織田信長の軍勢を破った上杉謙信ですが、結果をみれば越後を中心に上野、越中、能登などを領地として、その総石高は約150万石程度でした。
もちろんこれでも大大名といっていいのですが、最強といわれるほど強かった割には領土が広がっていません。これは上杉謙信が領土を広げるために戦をしたのではなく、上杉家(山内上杉氏)に頼まれて出兵したり、親戚である北信濃の豪族を助けるために兵を出したりしていたからでした。
有名な川中島の戦いも親戚である高梨政頼を助けるためで、何度も武田信玄と戦った割には領土は獲得できていません。
織田信長と比較してみるとその差は歴然としています。
上杉謙信 約150万石
- 越後
- 越中
- 佐渡
- 能登
- 上野
- 加賀の一部
- 北信濃
織田信長 約380万石
- 尾張
- 美濃
- 近江
- 伊勢
- 伊賀
- 越前
- 若狭
- 山城
- 大和
- 紀伊
- 和泉
- 河内
- 飛騨
- 丹波の一部
- 播磨の一部
上杉謙信の最大版図である1578年頃の比較ですが、信長は謙信を上回る領土を手に入れています。このときに上杉謙信は48歳、織田信長は44歳です。もちろんとりまく状況が違うので、簡単には比較できませんが、領土拡大において謙信は信長より劣っていたといえるでしょう。
いや、正確には、謙信は領土拡大のための戦をしなかったのかもしれません。
軍勢の進行方向が定まっていない
上杉謙信が兵を出した方向も、
- 関東 43
- 信濃 6
- 北陸 17
と統一されていませんでした。
助けを求められれば、手を差し出す義の武将ともいえるのですが、そのために神がかり的な強さを持ちながら、領土がそれほど広がらず、天下を取れなかったのかもしれません。
まとめ ー 謙信がもう少し長生きしていれば
上杉謙信は1578年に脳溢血で亡くなりますが、その直前に動員令を出しています。かなり大掛かりな動員令であり、上洛のためであったともいわれています。
もし謙信がもう少し長生きしていれば、歴史は変わったかもしれないのですが、これはいつもの歴史オタクのタラレバということで(^^;
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