越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄の間で繰り広げられた川中島の戦いで、有名なのが第四次川中島の戦いの両者による一騎打ちです。
歴史ドラマや小説などでは、必ずといっていいほど取り上げられるこの一騎打ちですが、実際にあったのかどうかは定かではありません。その理由はこの一騎打ちが明確に書かれているのは「甲陽軍鑑」という軍学書だけだからです。
第四次川中島の戦いの簡単な解説
上杉謙信と武田信玄の間で行われた川中島の戦いは、一度では終わらず数度に渡って繰り広げられました。中でも激戦だったのが第四次川中島の戦いです。
この戦いでも結果は引き分けだったのですが、前半は上杉軍が優勢で、後半は武田軍の別働隊が到着したこともあり、形成は逆転しました。
このときに上杉軍の総大将である謙信自らが、武田信玄の本陣に切り込み、信玄に太刀を振るったといわれています。信玄はとっさのことで刀を抜く暇がなく、手に持った軍配で三度、刀を受け止めました。
甲陽軍鑑には、
「三刀伐奉る。信玄公たつて、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちはに八刀瑕あり」
と記載されています。
意訳すると、
刀を振るわれ、信玄公は立って手に持った軍配で受けた。あとから確認すると軍配には8つもの刀傷があった。
という感じでしょうか。
そして太刀を振るった武者が、後ほど上杉謙信だと判明した、と記載されています。
これだけをみると、一騎打ちはあった、となるのですが、問題は甲陽軍鑑という軍学書の成り立ちです。
甲陽軍鑑だけでは真偽の判断が難しい
甲陽軍鑑は武田四天王の一人、高坂弾正昌信(春日虎綱)の原本を小幡勘兵衛景憲がまとめたものといわれています。
四天王の一人である高坂弾正が書いたものなら信頼性は高いのでは、と思うかもしれませんが、小幡景憲による追記や創作が多く、他の書籍との食い違いもいくつか指摘されています。それもあって歴史研究家からは信頼性が低いといわれている書籍でもあります。
では他に一騎打ちが記載されている書籍はあるのでしょうか。
実は複数存在します。そのうちの一つが関白近衛前久が上杉謙信に送った手紙です。この手紙は一次資料として名高いのですが、その手紙に謙信自身が太刀を振るったことが記載されています。ただ残念ながら相手が誰だったのか記載がありません。
もう一つは上杉家が編纂した上杉家御年譜という資料です。この資料にも一騎打ちの記載があるのですが、斬りかかったのは上杉謙信ではなく家臣の荒川伊豆守になっています。ただ上杉家御年譜も江戸元禄時代の成立なので、信頼性はそれほど高くはありません。
大将が単騎突出し、太刀を振るうことがあるのか
資料だけでは判断が難しいので、戦国時代に大将が単騎で敵に突出し、太刀を振るうことがあるのかを考えてみます。
常識的に考えるとこれはありません。大将の戦死が戦いの敗北に直結する以上、敵陣に単騎で突っ込むことはほぼないといっていいでしょう。ただ、ここで考えないといけないのが上杉謙信の性格です。
上杉謙信は武田信玄のように、床几に座って本陣にどっしりと構えるタイプではありませんでした。常に馬上で長剣を持ち、前線で指揮を執ったといわれています。謙信自身は毘沙門天の加護を信じており、他の戦いでも自分の身を平然と敵の銃が届く範囲まで晒すということをしています。
そして何よりも、一次資料である近衛前久の手紙が、謙信自身が太刀を振るうような戦いであったことを証明しています。
まとめ ー 謙信が太刀を振るい、信玄は太刀を受けた
最後に要点を整理しておきます。
- 上杉謙信自身が太刀を振るい、相手の武将に怪我を負わせた
- 武田信玄が相手の武者から直接攻撃を受けた
確実なのは上記になります。武田信玄に斬りかかった武者が上杉謙信だったのかどうかは分かりません。甲陽軍鑑でも、斬りかかった武将が誰かは分からず、あとから上杉謙信だと判明したと記載されています。
上杉家御年譜には荒川伊豆守と記載されていますが、この人物はほぼこの時にしか登場せず、その後の消息も分かっていません。
一騎打ちが本当にあったかどうかは結論が出せないのですが、歴史オタクとしては、史実だと考えたいところです。
だってその方が、ロマンがあっていいじゃないですか^^
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