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石田三成の子孫について調べてみた。関ヶ原後の三人の息子の行方。

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私の好きな戦国武将の一人に石田三成がいます。

 

石田三成徳川家康関ヶ原で戦い、そして敗れました。そのため、江戸時代から今日に至るまで、狡猾もしくは佞臣の武将として捉えられてきた感があります。徳川幕府にとって神君家康公が正義で、敵である三成がそう扱われれるのは仕方のないことなのでしょう。

 

私自身は豊臣秀吉の死後、多くの武将が徳川方に奔ってしまう中で、唯一豊臣家を保持するために戦い続けた義に厚い武将に思えてなりません。

 

石田三成関ヶ原の戦いのあと、捉えられて六条河原で斬首されました。年齢は41歳だったといわれています。当時の41歳であれば、成人した子どもが居てもおかしくない年齢です。

 

今回は以前から気になっていた石田三成の子孫について調べてみました。

 

石田三成には三男三女がいた

石田三成には三男三女が居たといわれています(二男五女という説もあります)。その三人の息子について、長男から順番に記載します。

 

長男 石田重家

長男の石田重家は関ヶ原の当時は16歳だったといわれています。関ヶ原には出陣せずに三成の居城である佐和山城を守っていました。

 

年齢は諸説あるようなので、16歳が正しい年齢なのかはどうかは分かりません。ただ関ヶ原当時に本当に16歳であれば、三成と一緒に出陣していそうな気がしますので、本当の年齢はもう少し若かったのではないでしょうか。

 

関ヶ原で西軍が敗北したあと、石田重家は京都の妙心寺に逃れたといわれています。これは石田家の重臣であった津山甚内が、石田家の嫡男であった重家を守るためにとった行動のようです。

 

妙心寺に逃れた石田重家は剃髪して出家しました。戦国時代は「坊主殺せば末代まで祟る」といわれていたそうです。その影響のせいなのか、重家はその後、咎めを受けることなく天寿を全うします。他の武将から助命嘆願があったのかもしれませんね。

 

重家が壮齢のときに、大坂城の戦いがあったはずですが、重家は還俗してそれに参加することもありませんでした。出家していたので子供も作らずに、1686年に亡くなったと言われています。

 

1686年という没年が本当であれば、驚くほどの長命ということになります。徳川家康が死んだのが1616年で、跡取りである2代将軍の徳川秀忠がなくなったのが1632年です。1686年は第5代将軍である徳川綱吉の時代でした。

 

石田重家は子孫は残さなかったものの、関ヶ原の登場人物の誰よりも長く世を生きた人だったといえそうです。

 

追記

石田家の第15代当主の石田秀雄さんは石田重家の子孫だそうです。末尾に重家の子孫について調べた情報を追記しました。

 

次男 石田重成

次男の石田重成は関ヶ原の当時は12-13歳だったといわれています。

 

関ヶ原の戦いのときは、秀頼の小姓をしていたこともあり大阪城内に居ました。西軍敗北後、同僚の津軽信建の手引により、重臣津山甚内とともに東北へ逃れます。

 

津山甚内は石田重家の脱出にも関わった人物です。甚内は三成からもしものときのために、世継ぎを逃がす指令を事前に受けていたのかもしれません。


津山甚内は長男重家とともに佐和山城脱出後、京都で重家を妙心寺に預け、その後に大坂城に入ったと思われます。そして津軽信建と一緒に重成をどうやって東北を落ち延びさせるのか相談をしたのでしょう。

 

津軽信建は髭の大名として高名な津軽為信の嫡男です。

津軽為信石田三成と深い関係にありました。津軽信建の烏帽子親を石田三成が勤めていますし、何よりも豊臣秀吉の奥州仕置時に津軽家を救ったのは三成といっていいでしょう。

 

奥州仕置時に津軽為信南部信直から謀反人として処罰するように訴えられました。元々津軽為信は南部氏の家臣でしたが、南部氏から半ば強引に独立し、津軽地方に領土を広げた経緯があります。そのため、南部氏から秀吉の惣無事令に違反したと訴えられましたが、石田三成の仲介もあり無事に所領を安堵されていたのです。

 

津軽為信はそのときの恩に報いるために、石田重成を匿ったのかもしれません。津軽に渡った石田重成は、徳川氏にはばかったのか、杉山源吾と名を改めます。その後は現地で隠棲したとも、江戸に出たとも言われていますが、1641年頃になくなったようです。

 

杉山源吾の子は杉山八兵衛良成と名乗り、津軽藩主の津軽信牧の娘ねねと結婚します。
八兵衛良成は津軽家の家臣として、1669年に蝦夷地で起こったシャクシャインの戦いでは、津軽藩の兵士700人を率いて侍大将として出征しました。藩主の娘を妻に持ち、戦に侍大将として出陣する八兵衛吉成は、津軽藩の重臣として活躍した、といって間違いないでしょう。

 

吉成には8男1女が居たといわれ、その子孫が現代まで続いています。

 

 

三男 石田佐吉

石田三成の三男は関ヶ原当時は元服前で、佐吉という幼名しか伝わっていません。石田佐吉という名前は三成の幼少時と同じですね。

 

石田佐吉関ヶ原の戦いのときは、長男の石田重家とともに佐和山城内に居たと言われています。ただ長男の重家と行動はともにしなかったようです。

 

石田佐吉は家臣である津田清幽(きよふか)に伴われ、高野山へと落ち延びました。この津田清幽は若い頃は織田信長徳川家康に仕えた経験があることから、家康と面識があり、石田佐吉の助命を直談判したといわれています。


西軍の事実上の総大将だった石田三成の子の助命を、家康に申し込むくらいなので、津田清幽はかなり肝が座った人物だったのではないでしょうか。

 

石田佐吉はその後、出家をして甲斐の国へと渡り、河浦山山薬時の第十六代住職になっています。法名を深長坊清幽としたらしいのですが、この清幽は津田清幽から取ったものでしょう。石田佐吉の津田清幽への感謝が、法名にあらわれていますね。

 

もう一人の三男 石田八郎

色々と石田三成関連の本を読み漁っていると、石田三成の三男は石田八郎と記載されているものもあります(三男ではなく次男と書かれている書籍もあります)。

 

石田八郎は関ヶ原の戦いのときは10歳前後で、二人の家臣とともに備中小田郡吉田村に逃れて、そこで石田姓を隠して帰農したといわれています。

 

現在の岡山県笠岡市には石田家代々のお墓と、二人の家臣のお墓もあるそうです。

石田姓を隠して帰農した八郎の子孫は、その後は石田姓に復し、現在は本家と分家を含めて40軒以上の石田さんがおられるそうです。

 

石田千代丸と石田宗信

石田千代丸と石田宗信の二人は、石田三成庶子と言われていますが、実在したかどうかは不明です。このうち石田宗信に関しては、色々と書籍を調べてみたのですが、まったく分かりませんでした。


ただ三男である石田佐吉でさえ、元服前の名乗りしか伝わっていないことを考えると「宗信」というちゃんとした名前のある子供が三成にいたかどうかは疑問です。

 

石田千代丸については、関ヶ原当時は幼児だったといわれています。
佐和山城落城時に遺臣や乳母が軍旗を巻いて、幼児だった千代丸を隠し、大阪府池田市の一乗院の近くに辿りついたようです。

 

実際に、大阪の一乗院には「石田三成軍旗塚」が存在します。これは石田千代丸の子孫の方が建立されたそうです。千代丸の子孫は代々四郎衛門と名乗り、現代まで続いているそうです。

 

石田三成の子孫のまとめと追記

調べてみると石田三成の子孫は東北で現代も続いていました。杉山吉成に8男1女がいたことを考えると、たくさんの子孫の方がおられるのかもしれません。

 

石田家の現当主

石田家の現当主は石田秀雄さんという方のようで、石田三成の長男である石田重家の子孫だそうです。


2016年に放送された大河ドラマ真田丸」で、石田三成を演じられた山本耕史さんと対面された記事を見つけました。

www.news-postseven.com

 

石田三成関ヶ原のときにお腹を下していたのは、小説などでもよく出てくる話なので、歴史好きならご存知の方も多いと思います。石田家ではそれを三成腹と呼称しているそうです。思わずニヤリとしてしまうエピソードですね。

 

石田三成の長男重家の子孫

石田重家については子孫は存在しないと前述しましたが、石田秀雄さんはその重家の子孫を名乗っておられます。

 

実はこの記事を書くにあたって、図書館から借りた本も含めて、計14冊の本を参考にしました。ただどの本にも石田重家の子孫について、記載されたものを見つけることはできませんでした。

 

石田秀雄さんご本人によると、関ヶ原の当時石田重家には身ごもった妻があり、その妻が結城秀康の保護を受け、越前で子どもを出産したそうです。その後、新潟県妙高地方に移り住み、庄屋として家系を現代まで伝えたそうです。

 

新潟県妙高市にあった石田館妙高ホテル

さらに調べてみると、新潟県妙高温泉には石田家の子孫の方が経営する温泉旅館までありました。ただ残念なことに経営が苦しくて、2013年に廃業してしまったようです。

www.joetsutj.com

 

今でも営業していたら、是非とも一度宿泊してみたかったですね。石田秀雄さんによると、この旅館も石田重家系の子孫の方が経営されていたそうです。

 

石田重家は書籍ではその子孫に関する記述を見つけることができませんでした。重家の妻が子どもを産んだのは、1601年だそうなので、重家はひょっとしたら妻が妊娠していたことを知らなかったのかもしれません。

 

重家の妻を匿った結城秀康は男気のある武将だっといわれています。家康の次男ですが、豊臣秀吉の養子として「秀」の偏諱を受けたくらいで、三成とも仲が良かったことが知られています。結城秀康が三成の忘れ形見を保護したのかもしれませんね。

 

三人の娘のその後は別の機会に

石田三成の三人の娘についても、調べてみると意外なことが分かりました。これについては別記事として記載しましたので、ご一読いただければ幸いです。

 

www.daremomiteinai.com