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石田三成の娘たちのその後。何と徳川家康の孫と結婚していました!

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戦国武将の子孫に興味があります。小説に登場する武将の子孫が現代まで続いていることに、不思議な感覚を覚えてしまうのは私だけでしょうか。

 

さて、前回は石田三成の男系の子孫について書いたので、今回は女系の子孫について書いてみます。前回の記事にも記載しましたが、石田三成には3男3女が居たという説と、2男5女が居たという説があります。ここでは3男3女説を採用しています。

 

石田三成の長女

石田三成の長女は名前は伝わっていません。石田家の家臣である山田勝重に嫁いだといわれています。山田勝重は関ヶ原の戦いの後は、徳川家康の六男である松平忠輝に仕えたとされています。

 

石田三成の家臣であった山田勝重が、関ヶ原の相手だった家康の息子である松平忠輝に仕えるのは不思議な感じがしますが、山田勝重の系図を調べてみると、徳川家康の側室の茶阿局の甥にあたるので、その縁から士官したのでしょう。

 

山田勝重はその後も松平忠輝に重用され、越後魚沼で2万石の領地を得ています。当時は万石以上で大名といわれたそうなので、大名格の家臣ですね。

 

その後、松平忠輝徳川家康との確執もあって改易されます。忠輝と家康の確執ついて書き始めると、それだけで本が一冊出来上がってしまうくらいなので、ここでは割愛します。興味がある方は隆 慶一郎の「捨て童子・松平忠輝」あたりを読んでみると良いかと思います。私も数年前に読んだことがありますが、氏の作品の中では「影武者 徳川家康」と並んで名作です。

 

さて、山田勝重はその後は隠棲したようですが、次男武兵衛と三男彦兵衛は津軽家に仕えています。津軽家は石田三成と関係が深いので、その縁で士官したのでしょうね。次男の武兵衛は姓を富岡に変え、富岡武兵衛と名乗りましたが、お家騒動の際に切腹し、子孫は絶えたようです。


三男の山田彦兵衛は700石の知行を得て、城代を務めるなど津軽家で重用され、現代へと続いています。

 

石田三成の次女

石田三成の次女は小石殿と呼ばれ、蒲生家の家臣である岡重政に嫁いでいます。


岡重政は若狭国守護武田氏の血族であり、大名並みの2万石の領地を与えられていたそうなので、蒲生家の重臣の一人といってよさそうです。

 

蒲生家といえば、織田信長の娘婿である蒲生氏郷が有名ですが、傑物と言われた氏郷の死後、蒲生騒動が起こります。

蒲生騒動 - Wikipedia

 

蒲生騒動のあと、岡重政は政敵であった蒲生郷成を追放し、藩内の実権を握ります。
氏郷の後を継いだ二代目藩主蒲生秀行の信頼も厚かったようで、三成死後の1612年まで蒲生家の家老として家政を司りました。

 

しかし三代目藩主忠郷とその母である振姫と対立し、蒲生秀行が逝去した翌年に徳川家康から自害を命じられます。


忠郷の母である振姫は、徳川家康の三女であったことから、振姫が家康に依頼したのでしょう。

 

小石殿のその後は分かりませんが、夫である岡重政が死去したことから蒲生家には居づらくなったようで、蒲生家を出て江戸で余生を送ったと言われています。

 

小石殿は岡重政との間に岡吉右衛門という男児をもうけています。
その岡吉右衛門にお振という娘がおり、このお振が徳川三代将軍である徳川家光に嫁いでいます。

 

なんと三成の曾孫が徳川将軍の嫁になっているのです。

 

お振は結婚後はお振の方と呼ばれ、徳川家光の最初の子どもをもうけています。

徳川家康石田三成は天下分け目の戦いである関ヶ原で争った敵同士ですが、その子孫は結婚していたという事実はあまり知られていないようです。

 

石田三成の三女

辰子もしくは辰姫と呼ばれていたようです。豊臣家の養女となり関ヶ原の戦いのときは大坂城に居たようです。

 

関ヶ原での西軍の敗戦後、津軽に逃れたようなのですが、石田三成次男である石田重成と行動を共にしたのか、それとも別経路で津軽に渡ったのかは分かりません。豊臣家の養女ということは、豊臣秀吉の正妻である高台院(おね)の養女ということになるでしょうから、高台院の意思があったような気もするのですが、どうでしょうか。

 

その後、辰姫は津軽津軽信牧と結婚して後の三代目藩主信義を産んでいます。当初は信牧の正妻としての婚姻だったようですが、信牧は辰姫との結婚後に徳川家の婚姻政策によって、家康の養女である満天姫と結婚しています。

 

徳川幕府への体面上、信牧は満天姫を正妻とせざるを得なかったようです。ただ辰姫との仲は良かったようです。調べてみると、満天姫との結婚が1613年、跡継ぎである信義が生まれたのが1619年なので、正妻として満天姫を迎え入れたあとも、信牧は辰姫を大事にしていたのでしょう。

 

辰姫は1623年に32歳の若さでなくなりますが、その子孫は津軽家として、現代まで続いています。

 

関ヶ原で敗戦した武将も現代まで子孫は続いていた

関ヶ原の戦いの西軍の事実上の総大将である石田三成の子孫のレポートは今回で終わりです。ミツナリスト(そんな言葉あるのか^^;)の私としては、子孫が続いているだけで嬉しく感じます。

 

武将の子孫を調べるのけっこう面白いので、次回は真田幸村あたりを調べみようかなと思っています。