2020年の大河ドラマが明智光秀が主人公であることもあり、光秀好きの歴史オタクとして一人で盛り上がっています。先週末も図書館で明智光秀関連の本を読み漁っていたのですが、その中に明智光秀の子どもについて言及した本がありました。
明智光秀の子孫については以前に記事にしたことがあったのですが、その時に作成した光秀に三男四女がいたというのは「明智軍記」という軍記物に記載があります。
荒木村重の嫡男、荒木村次に嫁いだ娘は、荒木村重の謀反後に明智秀満に再嫁しています。明智秀満は通称が左馬助で、ゲーム好きな方にはカプコンさんの「鬼武者」シリーズの主人公でも知られています。
少し話が脱線しました(^^;
書きたいのは娘ではなく、3人居たといわれている息子についてです。今回は明智光秀の3人の息子について、気になることをつらつらと書いてみます。
存在が唯一確認されている嫡男 明智光慶
明智光秀の男児として、存在が確実視されているのが嫡男の明智光慶です。通称は十五郎もしくは十兵衛ともいわれています。
明智光慶は愛宕百韻で結句を詠んだといわれており、本能寺の変のあとに光秀が細川忠興に送った手紙にも光慶が登場します。
本能寺の変のあと、明智光秀の与力的な立場にあった細川藤孝ですが、光秀に味方することはありませんでした。
光秀は説得のために、
「信長を討ったのは天下を取るためではない。乱が落ち着いたら与一郎殿と十五郎に政権を譲りたい」という意味の手紙を書いています。この手紙に登場する与一郎は細川忠興のことであり、十五郎は明智光慶と考えて間違いないでしょう。
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明智光秀の次男? 十次郎こと自然丸
明智光秀には複数の男児が居たといわれています。次男だといわれているのが、
- 十次郎
- 自然丸
- 明智光泰
といわれている人物です。
教養人だった明智光秀は何度か連歌に参加しており、そのときに息子を連れてきたのか、天正2年と天正9年に開かれた連歌会に明智自然丸の名前があります。長男の明智光慶とは名乗りが明らかに違うことから、次男は存在していた可能性が高いようです。
本史を書いたルイス・フロイスも、本能寺の変のあとに、
- 坂本城で明智光秀の二子が死んだ
- 長子は13歳
- 二人の容姿はヨーロッパの王侯貴族のようだった
と記載しています。
そうすると、少なくとも明智光秀には二人の男児がいたことになりますね。問題はこの二子が誰かということなのですが、竹中重門が書いた「豊鏡」という書物によると、このときに亡くなった長子は自然丸だといわれています。
豊鏡の記述が正しく、坂本城で亡くなった二子のうち長子が明智自然丸であれば、明智光秀には3人の男児が居たことになります。
明智乙寿丸 存在が確認できない第三子
明智乙寿丸については、色々と調べてみたのですが、存在を確認できた資料はないようです。明智軍記にその名前はあるのですが、明智軍記はあくまでも軍記物なので、信頼性はあまり高くありません。
やはり気になるのは本能寺の変のときに、坂本城で亡くなった二子が誰かということですね。
本能寺の変のあと、宣教師のオルガンティノが、坂本で通行証を「明智の子」からもらったといわれています。豊鏡の記述を信じるのであれば、この「明智の子」は明智自然丸ということになり、やはり明智光秀には嫡男明智光慶以外に二人の男児が居たと考えて良さそうです。
まとめ ー 明智光秀には少なくとも2人以上の男児がいた
3人説をまとめると下記のような形でしょうか。
坂本城の二子・・・自然丸(豊鏡に記載あり)と乙寿丸?
明智光慶・・・亀山城に滞在?(明智軍記の記載あり)
2人説をまとめると軍記物である明智軍記の記載を除外することになります。
坂本城の二子・・・明智光慶と自然丸(豊鏡に記載あり)
色々と読み漁った書籍の情報をつなげて見ると、明智光秀には2人以上の男児が居たと考えて良さそうです。3人居たかどうかまでは残念ながら確信が持てませんでした。
仮に明智光秀に3人の男児が居たとしても、残念ながら3人とも本能寺の変のあとに亡くなっています(諸説あり)。
歴史小説などでは明智光慶が生き延びて、南光坊天海になったりするものもあったりするのですが、これは小説として楽しむのが良さそうですね。
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