戦国時代に登場する武将には様々な呼称があります。
- 四天王
- 三人衆
- 十勇士
- 五名臣
- 三弾正
- 七本槍
- 七将
- 五大老
- 三中老
- 五奉行
思いつくままに上げてみましたが、かなりの数がありそうです。ほとんどが戦国時代よりあとに名付けられたものですが、こういうのってちょっとかっこいいですよね。
いちばん有名なのは徳川四天王でしょうか。ただ四天王という呼称は武田家や龍造寺家にもありますし、探せば他にもありそうです。
こういう呼称は中二っぽい、といわれると、いい歳した男にとってはちょっとショックなのですが、今日は戦国時代の武将に付けられた名称についてまとめてみました。
- 徳川四天王
- 武田四天王
- 上杉四天王
- 龍造寺四天王
- 三英傑
- 五大老
- 三中老
- 五奉行
- 毛利両川
- 賤ヶ岳七本槍
- 三好三人衆
- 西美濃三人衆
- 真田十勇士
- 尼子十勇士
- 三弾正
- 三大梟雄
- 織田五大将
- 豊臣七将
- 秀頼七将
- 黒田八虎
- 甲陽五名臣
- 大友三宿老
- 浅井四翼
- 海赤雨三将
- 三河三奉行
- 三勘兵衛
- 右近左近
- 両兵衛
- 一対坊主
- 大坂之左右之大将
- まとめ ー まだまだ他にもたくさんあるので、随時追加します!
徳川四天王
徳川家に仕えた功績のあった四人の武将。筆頭は最年長の酒井忠次といわれている。酒井忠次と並ぶ重臣だった石川数正を入れたものもあるが、石川数正が出奔したこともあって、今は以下の四人の武将が通説になっている。
- 酒井忠次
- 本多忠勝
- 榊原康政
- 井伊直政
武田四天王
武田信玄に仕えて功績のあった四人の武将。
- 山県昌景
- 馬場信春
- 内藤昌豊
- 高坂昌信
通常は上記の四人だが、信玄の初期は以下の武将とする説もある。
- 板垣信方
- 甘利虎泰
- 飯富虎昌
- 小山田昌辰
上杉四天王
上杉謙信に仕えて功績のあった四人の武将。
- 宇佐美定満
- 柿崎景家
- 直江景綱
- 甘粕景持
柿崎景家、直江景綱、甘粕景綱は実績があったのは確実だが、宇佐美定満は実在の人物であるものの、出自や功績が曖昧なところがある。
筆頭は柿崎景家となっているものが多いが定かでない。宇佐美定満が20歳以上も年長であることを考えると、宇佐美定満が引退後に柿崎景家が重臣筆頭の位置についたのかもしれない。
龍造寺四天王
龍造寺隆信に仕えて功績のあった四人の武将。
- 成松信勝
- 百武賢兼
- 木下昌直
- 江里口信常
成松信勝、百武賢兼、木下昌直についてはほぼ確実だが、江里口信常については円城寺信胤と入れ替わっているものもある。
三英傑
戦国時代に天下統一へと導いた三人の武将。三人とも現在の愛知県(信長、秀吉は尾張、家康は三河)出身だったこともあり、中部地方でよく使われている。
- 織田信長
- 豊臣秀吉
- 徳川家康
五大老
豊臣秀吉に仕えた五人の戦国大名。史書には五人の衆と記載されているが、五大老という呼び方が一般化している。
- 徳川家康
- 前田利家
- 上杉景勝
- 毛利輝元
- 小早川隆景
小早川隆景の死後は宇喜多秀家を入れて五大老としているものが多い。
三中老
豊臣秀吉に仕えた三人の大名。五大老と五奉行の調整役であったとされるが、一次資料では確認されていない。
- 生駒親正
- 堀尾吉晴
- 中村一氏
五奉行
豊臣秀吉に仕えて実務を担当した五人の奉行。豊臣政権の実務を担当した。
- 浅野長政
- 前田玄以
- 石田三成
- 増田長盛
- 長束正家
五奉行の筆頭は石田三成とされることもあるが、年齢と実績から考えると浅野長政だった可能性が高い。
毛利両川
毛利家を支えた吉川元春と小早川隆景の兄弟のこと。二人とも名前に「川」という文字が入っていたことから名付けられた。豊臣秀吉の手紙にも「両川」の文字があり、戦国時代から使われていたとされる。
- 吉川元春
- 小早川隆景
賤ヶ岳七本槍
七本槍は小豆坂や蟹江の戦いでも呼称されているが、一番有名なのは柴田勝家と羽柴秀吉が激突した賤ヶ岳の戦いの賤ヶ岳七本槍。秀吉による家臣団の喧伝の意味合いが強い。
- 加藤清正
- 福島正則
- 加藤嘉明
- 片桐且元
- 脇坂安治
- 糟屋武則
- 平野長泰
三好三人衆
畿内に君臨した三好長慶の死後に、三好家を支えた三人の武将。当時から三人衆と呼称されていたらしい。
- 三好長逸
- 三好政康
- 岩成友通
西美濃三人衆
斎藤道三の仕えた三人の武将。斎藤龍興の代になると、全員が斎藤家を見限って織田信長に仕えた。
- 稲葉一鉄
- 安藤守就
- 氏家卜全
真田十勇士
真田幸村に仕えた十人の侍、忍者、僧侶たちの名称。架空の人物だが、モデルになった人物は存在したとされる。
- 霧隠才蔵
- 猿飛佐助
- 三好清海入道
- 三好伊佐入道
- 穴山小助
- 海野六郎
- 根津甚八
- 由利鎌之助
- 筧十蔵
- 望月六郎
尼子十勇士
山陰地方の戦国大名である尼子氏に仕えた十人の侍の呼称。筆頭といわれる山中鹿之介は「我に七難八苦を与え給え」のセリフで有名。実在の人物が含まれている。
- 山中鹿之介
- 秋宅庵之介
- 横道兵庫之介
- 早川鮎之介
- 尤道理之介
- 寺本生死之介
- 植田早稲之介
- 深田泥之介
- 薮中荊之介
- 小倉鼠之介
三弾正
武田信玄に仕えた三人の武将。三人とも官位が弾正忠であったことから呼称がついた。
- 真田幸隆 攻め弾正
- 保科正俊 槍弾正
- 高坂昌信 逃げ弾正
高坂昌信は逃げ弾正と呼ばれるが、別に逃げるのが得意だった訳ではなく、戦で最も難しいといわれる撤退戦が上手かったために逃げ弾正と呼ばれた。
三大梟雄
戦国時代に活躍したが、裏切りが多かったために梟雄と呼ばれた武将。
- 斎藤道三
- 松永久秀
- 宇喜多直家
資料によっては北条早雲が入るものもある。
織田五大将
織田信長に仕えた五人の司令官。それぞれ担当地域の戦闘と行政を受け持ったとされる。
- 柴田勝家 北陸方面
- 丹羽長秀 若狭・四国方面
- 滝川一益 伊勢・関東方面
- 明智光秀 畿内方面
- 羽柴秀吉 中国方面
豊臣七将
豊臣秀吉に仕えた武断派の7人の武将。単に七将とも。石田三成襲撃事件を起こした。
- 加藤清正
- 福島正則
- 細川忠興
- 池田輝政
- 浅野幸長
- 加藤嘉明
- 黒田長政
秀頼七将
豊臣秀頼に仕えて大坂の陣で活躍した7人の武将。
- 真田幸村
- 後藤又兵衛
- 毛利勝永
- 長宗我部盛親
- 大野治房
- 明石全登
- 木村重成
黒田八虎
黒田官兵衛もしくは黒田長政に仕えた8人の武将。
- 母里太兵衛
- 後藤又兵衛
- 栗山善助
- 井上之房
- 黒田一成
- 黒田利高
- 黒田利則
- 黒田直之
甲陽五名臣
甲陽軍鑑に五名人と記述のある武田家に仕えた五人の重臣。武田の五名臣とも。
- 山本勘助
- 原虎胤
- 横田高松
- 小畠虎盛
- 多田三八郎
大友三宿老
大友宗麟に仕えた三人の家老。立花道雪は生存中は立花姓を名乗っておらず、正しくはは戸次道雪。
- 立花道雪
- 臼杵鑑速
- 吉弘鑑理
浅井四翼
浅井家に仕えた四人の武将。「近江輿地志略」に浅井四翼の記述がある。ちなみに「近江輿地志略」は国立国会図書館のデジタルライブラリーで閲覧ができる。
- 磯野員昌
- 大野木国重
- 野村定元
- 三田村秀俊
海赤雨三将
浅井家に仕えた三人の武将。それぞれの名前の頭文字を取って名付けられた。単に「浅井三将」とも呼ばれる。
- 海北綱親
- 赤尾清綱
- 雨森弥兵衛
三河三奉行
徳川家康が三河を統治していたときの奉行衆。「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎」という俗謡が有名。
- 高力清長
- 本多重次 通称は作左衛門
- 天野康景 通称は三郎兵衛
三勘兵衛
通称に「勘兵衛」の名が付く三人の武将。杉江勘兵衛は石田三成の家臣で、関ヶ原の戦いで辻勘兵衛に討たれた。
- 杉江勘兵衛 石田三成家臣
- 辻勘兵衛 辻重勝。田中吉政の家臣
- 渡辺勘兵衛 渡辺了。藤堂高虎の家臣
右近左近
奈良の筒井家の家臣だった松倉重信と島清興の二人。松倉重信の通称は右近、島清興はのちに石田三成に仕えた島左近のこと。
- 松倉右近
- 島左近
両兵衛
豊臣秀吉に仕えた二人の軍師のこと。二兵衛という呼び方も。竹中重治が黒田孝高の長男の松寿丸(後の黒田長政)をかくまったエピソードは有名。
- 竹中重治 通称は半兵衛
- 黒田孝高 通称は官兵衛
一対坊主
毛利家と長宗我部家にそれぞれ仕えたの二人の外交僧を指す。主に政治や外交面で活躍したことから一対坊主と呼ばれた。
- 安国寺恵瓊 毛利家の外交僧
- 滝本寺非有 長宗我部の外交僧
大坂之左右之大将
本願寺に仕えて石山合戦を指揮した二人の人物。鈴木重秀は傭兵集団である雑賀の棟梁で、下間頼廉は本願寺の坊官だった。二人とも戦闘指揮に優れていたため「大坂之左右之大将」と呼ばれるようになったという。
- 鈴木重秀 雑賀の棟梁。通称雑賀孫市
- 下間頼廉 本願寺の坊官
まとめ ー まだまだ他にもたくさんあるので、随時追加します!
他にもまだまだたくさんありそうなので、見つけ次第追記することにします。
武田二十四将のような大人数のものもあるのですが、それだけの人数になると、名前を確認するのも大変なので、もう少し調べてからにします(^^;
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