本能寺の変の黒幕は存在したのか? 可能性のある人物を7人をピックアップ

歴史 - 戦国時代

本能寺の変はその前後の状況から、明智光秀が単独で行動を起こしたことはほぼ間違いありません。ただ黒幕がいた可能性はあります。

黒幕としてよく名前が上がるのは、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康ですが、他に可能性がある人物は居るのでしょうか。

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今回は黒幕が居たかどうかについてや、取り上げる人物が黒幕として妥当かどうかについては考察せず、可能性があると思われる人物を7人ピックアップしてみました。

 

羽柴秀吉説 中国大返しが実現できた理由は?

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(出典 Wikipedia)

 

本能寺の変の黒幕として真っ先に名前が上げられるのが羽柴秀吉です。 

その理由は、中国大返しと呼ばれる備中高松城から京都までの大規模な軍隊の移動を成功させたことにあります。

 

通常では不可能と思われる200kmもの行軍を短期間で実現できたのは、秀吉が事前に光秀が謀反を起こすことを知っていたから、と考えれば不自然ではありません。

 

そして何よりも光秀を討ったあとで、誰が天下を取ったのかを考えれば、秀吉の名前があがってくるのはある意味当然なのでしょう。

 

徳川家康説 変の後に甲信地方を獲得

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(出典 Wikipedia)

黒幕を考える時に重要な要素のひとつに、変の後に利益を得た人物、というのがあります。

本能寺の変のあとに甲信地方を併呑して領土を広げた徳川家康も、黒幕として考えて不自然ではないでしょう。

 

家康は本能寺の変の時は堺見物をしていました。

変の発生後は、自分の領土である三河を目指して移動するのですが、そのときも無事に三河まで辿りついています。

 

家康に同行していた武田家の元家臣である穴山梅雪は、自分の領土まで帰ることができず、途中で土民に殺されました。穴山梅雪が帰れず、家康が帰れたのは事前に謀反を知っていて準備していたから、という考え方もできます。

 

長宗我部元親(四国)説 手紙の発見により可能性が高まる

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(出典 Wikipedia)

本能寺の変が起こったことで危機をまぬがれたのは、四国を本拠地としていた長宗我部元親です。

 

当時、織田家の5人の司令官の一人、丹羽長秀が大坂で四国征伐のための渡海準備中でした。信長の横死がなければ、織田家の四国征伐は実行されていたでしょう。

 

以前は四国説は可能性は薄いといわれていましたが、近年は手紙が発見されたことにより、その可能性が高まっています。

 

明智光秀の家臣斎藤利三が長宗我部元親と緊密に連絡を取り合っていたことも判明しています。長宗我部元親が黒幕といういうよりは、長宗我部と関係が深かった斎藤利三が明智光秀を動かしたのかもしれませんね。

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足利義昭説 陰謀将軍が備後の鞆の浦から

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(出典 Wikipedia)

陰謀将軍」の異名をとり、信長包囲網を築き上げた室町幕府最後の将軍である足利義昭は、本能寺の変のときは備後の鞆に在住していました。

 

信長による京都追放後は、歴史の教科書からは姿を消してしまう足利義昭ですが、鞆でも諦めることなく策謀を続けていました。将軍ということもあり、鞆での暮らしぶりは悪くはなく鞆幕府という呼び名まであります。

 

明智光秀は確証はないものの足利義昭に仕えていた時期があります。

 

そして何よりも本能寺の変の翌日に明智光秀が足利義昭に手紙を書いています。実際の宛先は小早川隆景宛ですが、足利義昭に毛利氏と共同して羽柴秀吉を討って欲しい、という意味の記載があります。

この手紙の存在は「川角太閤記」に記載されているのですが、原本は残っていません。真実は不明ですが、もし手紙が実在するのであれば、足利義昭黒幕説も真実味を帯びてくるでしょう。

 

本願寺教如説 仏敵 第六天魔王信長

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(出典 Wikipedia)

織田信長の最大の敵は、今川義元でも浅井朝倉でも武田信玄でもなく、石山本願寺を本拠地とする一向宗だといわれています。

 

本能寺の変の当時は信長は一向宗と既に和睦していましたが、その和睦に最後まで反対したのが、本願寺第12世宗主の本願寺教如でした。

 

織田信長はキリスト教を優遇し、仏教については自ら仏敵である第六天魔王を名乗ったという逸話もあるくらい、仏教を敵視していました。

 

教如は穏健派だった父顕如とは違い、信長を最後まで敵視したと伝えられています。石山本願寺から退去後は紀伊に移住していましたが、そこから仏敵信長を討つための策謀をめぐらせたのかもしれません。

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安国寺恵瓊説 恐るべき慧眼の持ち主

毛利氏の外交僧の安国寺恵瓊は、一枚の手紙で後世に名を残しています。

 

「信長の治世は5年か3年は持つだろう。来年辺りには公家になるかもしれない。そののち仰向けにひっくりかえるかもしれない。藤吉郎(羽柴秀吉)は優れた人物だ」

 

この手紙が書かれたのは1573年です。本願寺の変が起きる9年も前に、それを予言するような発言をしているのです。恐るべき慧眼の持ち主といっていいでしょう。

 

四国の長宗我部のように毛利氏も織田家に攻められて窮地にありました。

安国寺恵瓊が過去の自分の発言を実現させるべく動いたのかもしれません。

 

朝廷・公家説 捨て去ることのできない朝廷説

織田信長は朝廷を軽視していたのかどうかは議論が別れています。

朝廷を手厚く保護した実績もありますが、右大臣を辞した後には何の官職にもつかず、朝廷からの打診にも明確な返答をしていません。

 

安土城の城下には天守閣の近くに御所を模したような建物があり、自らを礼拝させたともいわれています。

 

正親町天皇との仲もあまり良くなかったとようです。

もし信長が正親町天皇を退位させ、自らがその位置に就くようなことを考えていたとしたら、勤王の志を持っていたといわれる光秀を、朝廷が動かした可能性はあるでしょう。

 

まとめ ー 黒幕は居たのかどうかは・・・?

 

策謀において用意周到だった光秀ですが、本能寺の変だけは事前に準備したような様子がありません。娘婿だった織田信澄にも連絡していませんし、盟友といわれる細川幽斎や与力大名の筒井順慶にも相談したような形跡は見受けられません。

 

それゆえに本能寺の変は光秀の単独ではなく、誰か黒幕が居たのではないかとずっといわれ続けています。でも現時点では居たのかどうかは判明していません。

 

歴史ヲタとしては妄想を続けられるので、今の状況でも楽しいのですが、心のどこかで新しい資料が発見されて真実が分かるような展開も望んでいたりします。

 

本能寺の変の真実が解決するのかどうかは、この先に資料が発見されるかどうかですね。

 

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