本能寺の変 431年めの真実 賛否両論の子孫による解説書

英語

本能寺の変 431年目の真実は、明智憲三郎氏による本能寺の変の独自の解説書です。

 

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著者が様々な書籍や資料を基に、本能寺の変に関する考察を一冊の本にまとめたものになります。

 

様々な資料を組み合わせて、蓋然性の高いと思われる条件を積み重ねていく方法で検証されています。ご本人はこの手法を「歴史捜査」と名付けて、いかにも真実はこれしかない、という断定口調で書かれていますが、実際はどうなのでしょうか。

歴史学者からはトンデモ本扱いされている本書ですが、私になりに思うところを書いてみます。

以下はネタバレも含む内容になりますので、未読の方はご注意くださいませ。

 

信長が家康を討つことはありえない

この本がいう本能寺の変の真実を要約すると下記の通りです。

  • 織田信長は徳川家康を本能寺で討とうとしていた
  • 明智光秀はそれを知って家康と同盟し、逆に織田信長を討った

 

まず、織田信長は徳川家康を討つ可能性はあったのでしょうか。

林通勝や佐久間信盛を追放したように、信長は実力主義者でした。徳川家康の嫡男徳川信康を切腹させたのも織田信長だといわれています。

 

それを考えれば信長が家康を排除する可能性はあったといえるでしょう。

問題はその時期です。

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(出典 NHK)

本能寺の変があった1982年6月の勢力図です。

織田軍の領土は尾張、美濃、伊勢、志摩、近江、伊賀、山城、大和、摂津、和泉、河内、丹波、丹後、但馬、播磨、若狭、越前、飛騨、加賀、能登、越中に及んでいました。武田氏を滅ぼしたあと、甲斐、信濃、上野も手中に収めていたことを考えると、合計で24カ国を治めていたことになります。

 

ただ信長の領土は周りを敵に囲まれています。

その最大のものは中国の毛利氏であり、他に四国の長宗我部、北陸の上杉、関東の北条などでした。

そして当時、織田家の5人の司令官は下記のように配置されていました。

  • 柴田勝家 北陸の上杉
  • 丹羽長秀 四国の長宗我部
  • 滝川一益 関東の北条
  • 羽柴秀吉 中国の毛利
  • 明智光秀 中国の毛利への援軍として準備中

著者は武田氏を滅ぼしたことにより、東方面の協力者だった徳川家康の存在意義が薄れたのが織田信長が徳川家康を討つ理由、と結論づけています。

近畿方面担当だった明智光秀がその役割をほぼ終えたこともあり、徳川家康の領土攻略に乗り出したとも書かれています。

 

でも、この状況で信長が家康を討つでしょうか。

 

信長の優れたところは戦術面ではなく戦略面です。戦力を分散させて各個撃破されることは戦略的な悪手です。戦略に優れた信長であれば、間違いなく戦力を集中する道を選んだでしょう。

 

明智光秀を中国の毛利氏への援軍として派遣し、しかも羽柴秀吉との関係も配慮して、山陽道は秀吉に、山陰道は光秀に、そして自分は全体の後詰として中国地方に出征するという信長の戦略は理にかなっています。

 

この時期に徳川家康を敵に回す意味が分かりません。

仮に信長がいずれは家康を始末することを考えていたとしても、その時期は毛利や長宗我部、上杉などが片付いた後のことでしょう。

 

少なくとも北条氏と敵対したときに、駿河から家康を攻め込ませるために徳川家は必要です。この状況で徳川家が寝返ったりすれば、上野に進駐していた滝川一益は撤退を余儀なくされたでしょう。

 

もし信長が家康を討つとしたら、織田家が北条氏を滅ぼし、徳川家を関東か東北の遠国に領地替えを命じて従わなかったときが、織田信長が徳川家康を始末するタイミングではないでしょうか。

 

光秀は誰にも相談せず本能寺の変を決行した

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当時の織田家には与力大名という制度がありました。

 

与力大名は身分としては織田家の直属の家臣でありながら、織田家の司令官の下について行動していました。有名な与力大名の例を上げると、柴田勝家の前田利家や、羽柴秀吉の蜂須賀小六などでしょうか。

 

明智光秀にも与力大名がいました。細川藤孝と筒井順慶です。この二人がもし光秀に味方していたら、明智光秀の天下は続いていたかもしれません。

 

ところがこの二人は光秀に味方することはありませんでした。筒井順慶は最後まで態度を明確にしませんでした。その行動は後に「洞ヶ峠」という言葉さえ生み出しました。

 

最も関係が深かった細川藤孝でさえ味方をすることはありませんでした。藤孝の息子の忠興は光秀の娘(細川ガラシャ)を嫁にもらっていましたが、それでも味方をしなかったのです。

 

光秀はほぼ単独で謀反を決定し、与力大名にも告げずに謀反を決行しました。部下に伝えたのでさえ、前日ことだったといわれています。

 

もうひとり、明智光秀の与力大名ではありませんが、明智光秀の娘をもらっていた重要な武将がいます。織田信行の嫡男で「一段の逸物」という評価が残っている織田(津田)信澄です。織田信澄は本能寺の変の直後に、丹羽長秀・織田信孝の二人に謀反への協力を疑われて敗死しています。

 

もし光秀が周到に計画を練って謀反を決行したのであれば、織田信澄にも事前に連絡していた筈です。

光秀は与力大名にも娘婿にも謀ることなく謀反を決行したのです。

 

その光秀が、縁戚でもなく織田家からみれば、外様大名である徳川家康に謀反の相談をするでしょうか。もし家康が信長に通報すれば、それだけで光秀の生涯は終わります。

 

本能寺の変に黒幕がいたのかどうかは別ですが、少なくとも明智光秀は誰にも相談せずに単独で本能寺の変を起こしたことは間違いありません。

 

作者の推測、憶測、不明点、勘違いしている点

明智光慶の許嫁が山岡兄弟の妹?

他にも残念ながら作者の推測や憶測による記述が何箇所かあります。歴史好きの素人である私でも分かるような間違いです。

 「徳川実紀」によると山岡兄弟の妹は光秀の長男・光慶の許嫁と書かれている。光秀とは浅からぬ縁があったわけで、家康警護も光秀に依頼されたものであった可能性がある。

文中の山岡兄弟というのは山岡景隆と山岡景佐という二人の兄弟武将のことです。山岡景隆の生年が1525年、山岡景佐が1531年です。本能寺の変の当時、二人は58歳と52歳でした。

 

一方の明智光秀の嫡男の明智光慶は13歳です。50代の山岡兄弟の妹が、13歳の明智光慶の許嫁になるのは無理でしょう。

 

そもそも徳川実紀は1900年台に作成された書籍です。本能寺の変から300年以上も後に作成された、信頼性が低い資料をなぜここで引っ張ってきたのか分かりません。

 

山岡兄弟も本能寺の変の後は、明智光秀に味方せず敵対したので、家康と光秀の盟約があったという著者の主張とも矛盾しています。

 

安土城放火の真犯人

その時点では安土城に明智秀満がいた。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとろうとしたはずだ。家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられる。

支援部隊を送ったと「考えられる」という著者の推測ですね。安土城放火が家康と光秀の盟約の証拠にはなりません。

 

著者は多聞院日記の「家康既至安土著陣云々」の記述をもとに、家康が援軍を送ったと考えておられるのかもしれませんが、多聞院日記は伝聞による記載が多く、この一文も虚報なのは確実でしょう。そもそもが「云々」という言葉なので「のようだ」という伝聞調になっています。

 

著者が信頼できる資料として度々取り上げている「家忠日記」には、6月4日には家康は伊勢を出たとの記載があります。家康の退却ルートを考えてもそちらのほうが正しい記述ですね。

 

安土城を炎上させたのは、誰なのかが分かっていないのは事実です。

 

織田信澄の謀反の噂を流したのは秀吉

本能寺の変の翌日に一斉に流れた「織田信澄謀反」のニセ情報も発信元は秀吉と考えられる。

これも著者の憶測ですね。時系列を考えてみれば明白です。

 

本能寺の変が6月2日です。光秀の娘婿である織田信澄謀反の噂が流れたのが、翌日なので6月3日になります。さて、羽柴秀吉が本能寺の変を知ったのは何日でしょうか。

 

6月3日の深夜です。しかもその時秀吉は備中高松城を囲んでいました。時系列でみても、居場所を考えても、秀吉が信澄謀反の噂を6月3日に畿内に流すのは不可能です。

 

準備されていた和睦

いわば事前に毛利との間で和睦の基本合意ができていたということだ。和睦を前提としていた毛利氏は信長の死を知っても秀吉軍に追い打ちをかける気はさらさらなかった。

毛利と秀吉が和睦について交渉していたのは事実です。

 

ただ信長の死を知っても、秀吉軍に追い打ちをかける気はさらさらなかった、という記述は間違っています。

 

当時の毛利の主導者であった毛利両川の一人、吉川元春は追撃を強く主張しました。秀吉嫌いだった吉川元春は、後に毛利家が豊臣家の家臣になってからも、出仕を嫌って隠居した人物です。毛利が秀吉を追撃しなかったのは、毛利両川のもう一人、小早川隆景が元春を抑えたからです。

 

そして本には記載はありませんが、光秀も毛利家に密使を送っています。

 

光秀が信長を討った後に真っ先にやるべきことは、柴田勝家や羽柴秀吉などの織田家の大軍を率いる司令官を現地に釘付けしておくことでした。当然のことながら光秀は密使を毛利家に送ったのですが、その密使は羽柴秀吉に捕縛され、毛利家に情報が届くことはありませんでした。

 

もし密使が予定通り毛利家に到着していれば、秀吉の中国大返しは実現せず、歴史は変わっていた筈です。

 

安国寺恵瓊に関する記述

恵瓊はいずれ毛利の足元をすくおうと虎視眈々、機会を待っていたのかもしれない。

毛利家の外交僧として有名な安国寺恵瓊に関する記述はひどいものがあります。上の一文などは憶測でしかないですね。

 

秀吉が信長が数年後に滅ぶ可能性があると恵瓊に伝えた、とも書かれていますが、これに関しては憶測もいいところで、言及する必要もないでしょう。

 

細川忠興への出陣命令

信長の家康領侵攻の計画では藤孝の嫡男・細川忠興の出陣も指示されていた。そのことは、忠興が光秀とともに武田攻めに同行するように信長に命令されたことで明らかだ。したがって、直前には忠興にも信長から六月2日の上洛命令が出されたはずだ。

憶測に憶測を重ねた文章になってしまっています。

 

まず信長の家康領侵攻計画というのが作者の創作です。そして武田攻めに同行した武将が何人いると考えているのでしょうか。名の知れた武将だけでも十数人になるのに、細川忠興が武田攻めに同行するように支持されたから、家康領侵攻計画に加担していたというのは無理があります。

 

信長の上洛命令にしても「出されたはずだ」という著者の憶測ですね。

 

まとめ ー 歴史小説としてはおもしろい

色々と書いてしまいましたが、歴史小説と考えれば非常におもしろい書籍です。

状況から考えれば、本能寺の変は明智光秀による単独行動です。ただ黒幕がいた可能性はあります。

 

以前は可能性が低いと思われていた四国説も手紙の発見により、近年は可能性が高いと考えられています。

 

 

新しい資料の発見によって、変化するのが歴史です。

ひょっとしたら光秀と家康の盟約も、新たな資料の発見によって将来的に証明される可能性もありますが、現時点ではその可能性は極めて低いといわざるを得ないようです。

 

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